ブログやSBMのカテゴリ分けというのは他人のためにしか機能してないので、自分のためにカテゴリ(以前の何か)が作れるようなマーク手段が欲しい
を読んで、思うこと。
自分のメモ書きはここ。
自分が、何かを見て「あっ」と、思うとき、これは何かに使えるかも知れない、と思う瞬間というのがあって、これはカテゴリでは捕捉不可能だと思います。
カテゴリというフィルタを通すことで、その網の目に通るように脳内で整形してしまうというか。
カテゴリの数を増やしても、「先にカテゴリを決めている」ということには変わりないわけで、それって結局「自分が今もってる枠組みで情報を処理してる」だけなんですね。
だから「反応」になる。しかし、反応…とは、すでに自分がなんであるか知ってる人の言葉じゃないんですかね。
自分にとっては、どう「反応」するか、ということより、反応できる自分をどう作るか、ということが問題なのであって、できていない枠組みにどれだけ情報を通しても、「脊髄反射」しか出来ないのは自明なんであります。
自分が未成熟であることに胸を張っても気持ち悪がられるだけですが…。
ネットを一つの情報源として割り切って捉えられる人にとって、記事単位で分割されたブログやSBMというのは、効率よく自分の枠組みに合う情報を拾える仕組みだと思うんですが、そうではない人、たとえば自己形成の一つの道具でもある、と、思っている人にとっては、ブログ/SBMの、分割・カテゴライズという仕組みは、自己形成の妨げになるのかも知れない。
?Dの自分の日記でも、カテゴライズした「game」「diary」なんてのは、自分のために、実はあんまり役に立ってない。自分で使うのは、ことしプレイしたゲームっていくつあったかな、って時くらいで。
簡単に言うと、情報を使いこなせる人にとっては、便利ツールかも知れないけど、そうじゃない人にとっては、どうなんですかねー、ということです。
考えていること
g:list:id:Hebiさんもまとめていらっしゃることに重なりますが、上のような不満を持つうちに、カテゴリになる以前のもの、「あっ」と思ったときのことを、クリップしておける、カテゴリ未満の何かが欲しいなと思うようになりました。
僕が漠然と考えてるのは、「無名カテゴリ」みたいなものです。無名、と書きましたが、何でもいい、使い捨ての、程度の意味で、実際には名前は存在してもいいです。
同じ「無名カテゴリ」が振られたもの同士は、串刺しで呼び出すこともできるけど、それほど多くなくてもいい。「あっ」と思ったとき「これはあのときのアレに近いな」というマークを付けて、それを簡単に参照できればいい。
ある程度、「無名カテゴリ」がたまったら、自分なりに何かまとめて、きちんとしたカテゴリ名を振るなり、捨ててしまうなりすればよい。
SBMだけでなく、日記の「カテゴリ」についても、似たようなことを考えてます。
比喩
小さなメモ用紙に何か書いて、箱に入れるときに、バラバラになると困るので、似たものはクリップで留めますね。クリップの働きをしてくれれば、それでいいし、この、たかがクリップに、一つ一つ名前を付ける必要はない。
最終的には、見出しのついた整理用のボックスに入れたほうが効率いいのですが、そうなる「前」というのが必ずあるんじゃないでしょうか。