最近の俺とボドゲ(1)
twitterやhaikuに書き散らしていていっこうにまとまらないことなのだが、最近漠然と考えていることを箇条書きにしてみる:
1.
- NiftyServeみたいなアゴラが消滅して、ブログプロバイダを含めての所謂「サイト持ち」が増えたことで、それらのサイトの集合がばくぜんと「ギョーカイ」ということになり、それらサイトを見て回ることがギョーカイ事情通、みたいな空気を感じる。
- 往時をたいしてよく知っているわけでもないが…
- 中央集権BBS国家とは違って、だれもが「サイト持ち」のweb世界では、ある話題に対して主体的に参加する機会は少ない。ネットのすみっこの自分のねぐらに良質な考察(ここ半笑い)を置くだけで、ギョーカイに貢献していることになる。考えてみるとこれは不思議なことだ。
- TRPGでハンドアウトがどうこうという話題を見ていて思った。自分はハンドアウトの是非自体には興味はないが、あたらしい潮流であるらしいハンドアウトという仕組みに否定的なことを言ったときに「まだそんなことを言っているのか! 勉強不足な奴だな!」みたいなDISりが発生するのには違和感を覚えた。
- 「まだ」とは、どの世界において「まだ」なのだろうか。その世界では歴史はリニアに発展しているのだろうか。
- インターネット全体を知の集積と捉えれば、あるいはそうなのかも知れない。既出の意見を書くということは、その知の集積に寄与しない、ということになるから。
- でも、集積ったってやってることは、自分の思うことを書いて置いているだけで、主体的に何かに参加してるわけではない。集積っていうのはそもそも、過去のものと現在のものに同じようにアクセスできるところに価値があるんだろうし。
- しかし、何か既出の意見を言うと「そこは数年前に私達が通った地点だ」と言われる。
- そこに「あなたの歴史観でおれの書いていることを判断してくれとは頼んでない。あなたの場所と私の場所をコンテンポラリに比較することなら認める」と反応すると、「歴史を学ばないなんて不勉強だ」といわれることになる。このずれは、どれだけ歴史が「あるということにしたい」と思っているか、という違いなのだろう。