「つまらないなら面白くすればいいじゃない」について

手を動かしてコードを書くのが、唯一の「面白くする」ことだと考えられているなら、そういう世界では、全ての読者は作家になることが義務づけられる。

私の定義では「面白くなる」というのは、何かに触発されて私の認識がひんまがることを指す。だから「面白くする」というのも、わりと自分の認識の問題だと思っている。

作家と読者の喩えで書く。「面白い」経験を得るために、私たちは「おなじ作家の本を買い続ける」ような行動をとる。そうして、買ったものに対して「いまいち」だのなんだのと言ったりする。世界を面白くしたいのなら、自分が本を書けばいいはずなのに。どうしてだろう。

いいコード・いい作品が面白い世界をつくる、というのが唯一の真理ならば、本だって、作家の名前を伏せて売って、読者は売れ筋トップから順番に買っていけばいい。そこに並ぶラインナップが豊かなことが、世界が面白いということになる。さぁ君も面白くしたいのなら作家になりなさい、とアジれば、事足りる。*1

ある作家の、面白いかどうかわからない次の作品を、首を長くして待つ必要なんてない。

でも、そうはなってない。私たちは、人から与えられたもので自分が「面白く」なれたことに、特別な感情を抱くのだし、与えてくれた相手に対して、心の中でひそかに契約を結ぶ。それは、受け手の私たちが何も作らなくても起きうる、出会いなのだ。

自分でも何のことを書いたのか忘れそうなので補助線

このやりとりを見て、この人たちの間では「面白くする」の定義が違うんだなと思ったのだった。

*1:実際に、さぁ君も作家になりなさい、という世界では、作家の名前なんて、美嘉だか美佳だか…あれなんだっけ、つかなんで苗字ないの、と、至極どうでもいいことになっているのではないかと…いやこれは余計な話…