文化人類学者のノート(「絵描きさん」の村に関して)

…この「絵描きさん」の村には、村人同士で絵を贈り合うという風習があり、さいしょそれを私は、奇妙なものだと思っていた。複製が可能なデジタルデータを「贈る」ということの意味が理解できなかったのだ。

それで私は、彼らが絵を贈った後の行動をすこし観察した。

絵を書いた側の者は、贈ったあとも、オリジナルのデータを自分が持っているわけだが、その絵を自分の管理するスペースに飾ることはしない。贈った側は、自分のスペースに飾るかわりに、贈った相手のページ(トップページ)へのリンクのみを、自分のスペースに書くのが、通例であるようだった。

一方で、絵を貰った側は、その絵を自分のページに飾り、贈ってくれた人のページ(トップページ)へのリンクを併記していた。

どうやらかれらは、デジタルデータである絵を複製することを、擬似的に贈り物とみなし、制作者でない者が絵を「所有」しているかのように、見立てているようなのだった。

これは厳密には、(私たちの一般的な概念でいうところの)所有ではない。元の絵描きは、絵を送った後で自分のオリジナルデータを消去したりはせず、データとしては所持しているのだし。

この絵はどこか村の外に売りに出しているのか、と私が尋ねると、村人は不思議な顔をした。この村にも、簡単な貨幣経済は存在するが、彼らの絵は売るものではないらしかった。彼らの機嫌を損ねないように、では、もし私があなたの絵を気に入ったら、どうすればいいのか、と尋ねると、村人は一言言った「あなたは何かを描くのか? あなたが何かを描くならそれを見せてほしい」。わたしが、わたしの感謝を労力として書き手に示すのが、もっとも推奨される方法であるらしかった。

この、絵の「所有」は、たとえばサイトを「家」とみなしたとき、絵を家の壁に飾ることに喩えられる。かれらの絵の「所有」の権利は、あるサイト内にサイト管理者が絵を掲示する権利と、言い換えた方がよいものだ。

この村に入って一週間ほど経った、ある雨上がりの朝、私は村人達の荒々しい声で目を覚ました。離れを借りている家の娘が「ブワナ、大変だ」と、入口から顔を差し入れ、まだ袖のボタンも止め終わっていない私の背中を押して、広場にせきたてた。広場の中央には私と同じ国の男が、腰に縄を繋がれて立っていた。
「やぁ、有り難い、うまく言葉が通じなくて困ってたんだ」それまでの表情を崩して、つながれた男は言った。「通りすがりの者だが、きみたちの絵が気に入った、複写してもいいかな…と言ったら、この有様だ。私に悪意がないことを、この人たちに説明してくれないかな?」
「…わかった…しかしそのまえにまず、君のその格好では説明は難しい」わたしは、男の腰にさがった、けばけばしいプラスチック製の容器を指さした…

おでんくん タンブラー (カラフル)