わたしはなぜ書店に行くのか

もっぱらAmazonでしか本を買わない人を大きな書店に連れて行ったら衝撃を受けていた、という話(創作? 実話? どっちでもいいけど)を読んだ。

ブックマークコメントも読んだ。

一覧性が高いとかレコメンデーションがない、といったことが、べつだんリアル書店の強み/弱みとは思えない。それAmazonから逆算して反対の性質を挙げてるだけだろ。

わたしが書店に行っておどろくのは、私が買わない本が、私が欲求しているものとはべつに、あらかじめ「もの」の形をとってそこに「ある」ということだ。いうなれば、それらは他人の欲求である。

Amazonから、じぶんの興味やblogのレコメンドを辿って、本のレコードが抽出され、「買う」ボタンを押して、本という実体が自宅に届けられて、自分の部屋の本棚にそれが並ぶ、というシーケンスの中には、他人の欲求が入る余地がない。

あるいは、わたしが触れ、そのとき買わない本を、このあと他の誰かが買っていくかもしれない、という、欲求の焦点として、リアル書店の本はある。

言い換えると、有体物としての本を通して、わたしは、他の読者という、名前も知らない他者に出会う。

追記

わけわかんないか。

もしAmazonが、書店ではなく、オンデマンド出版サービスの名前だったら…ということを想像すると、Amazon脳の人がリアル書店で受ける衝撃がわかるかも知れない。

追記2

あと、「書店に行くとなんかもよおしちゃうんです…」という尾籠な話題も、この話に繋がっているのかも知れない。その便意は他人の欲求に晒される高揚感から生まれるのだ、とか…。