わたしは誰と知り合い誰を無視してきたか(rehearsal)
こんど、地方紙がゲーム会を取材に見えるのだが*1、最近はそういうものにもあまり驚かなくなった。というより、地元のテレビに映ったり雑誌に載ったりしても、それを見てあそびに来ていただける方はごくわずかなので、あまり緊張したり期待したりすることがなくなった。
いやぁほんと、マスメディア効果ってないもんですよ。できあがった紙面や番組をみても、よくまとまっていると思うんですけど…
でも、本当にそれが結論なんだろうか?
私が思うのは、取材する人たちが期待するような(かならずしも本意ではない)模範解答を用意して答えたところで、だれひとり面白くはならないかもしれない、ということだ。
答えている側が「こんなこと言っておけば無難?」なら、取材する人も「あぁ、やっぱりそうなのね」と思うだけだし、そうやってできあがった記事や映像を見た人が、興味を抱くわけがないのでは、ないだろうか。面白くないのはまぁいいのだが、誰にとっても、真実ではないかもしれない。
ところで、私は、取材をしていただいた人の顔や名前を、ほとんど誰一人、覚えていない。取材の時間に、取材以外の話をした記憶もない。…私の言葉がとどかないのは、つまり、そういうことではないのだろうか?
cut.
この話は暇になったときにゆっくり書いてみたいが、ゆっくり書かなくても十分という気はする。
これはこの日記にもときどき書いたことだが、以下の「ボードゲームをする理由」はすべて、私にとってはストライクではなかった。間違ってはいないが、方便でしかなかった。
- ドイツのゆたかな手作りの文化を
- いやドイツ知らんし
- 親子でたのしく
- 子供いません
- 知的興味・頭の体操
- 将棋とかやったほうがもっと頭使えますよね
- テレビゲームにはない楽しさ
- 私を含めてサークル参加者の多くは重度のテレビゲーム障害患者です
- コミュニケーション
- むしろ非コミュです。定例会にコミュ力カウンターを持ち込んで計測したらマイナスに針が触れることでしょう
それでもなお、私は「ここには何かある」と思ったし、趣味を同じくする人とのつながりを大事なものだと思った。それは何だったのだろう?
追記
疑問形でもったい付けるのも変なので今のところの自分の答えを書いておく。
- 楽しさを引き出す面子の能力に対する信頼
- 与えられたルールが自分の頭の中で結像するよろこび
- 意味がわからないときにディスカッションやこじつけによって楽しさを引き出そうとするいとなみ
- それでもわからないときに寄ってたかって貶すたのしさ
- ルールの仕組みによって楽しさを引き出す能力は、万人に備わっていると思いたい。
- (だからフォーク並びができない状況に不機嫌になる)
- 日本のボードゲーム業界がどうなるか、とか、そういう意味でほとんど興味ない。人生ゲームが何万個売れても、「ルーレットまわしてキャー」みたいな遊び方に可能性を感じない。
- 子供の遊びでも、それに大人の思考で取り組むことで、なんらかの楽しさを引き出せる可能性がある。
- 電力会社とスティッキーを同等に遊んで、楽しさを引きだそうとするマインドの部分に重きを置いていると思う。どこが面白かったかについてはよく話すけど、あまりゲームのシステムそのものや業界を語ったりすることはない。
- 相対的に「非電源」「普及」的な自意識からは遠い(他所がどうかはわからないけど)
- いや実際には、電力会社とスティッキーを全く同等に扱うことは無理だけど、気持ちの上で…
*1:私がサークルを主宰している訳ではありません