定義(「非電源系的」について)

昨日のような話にまだまだ反応してしまうので、何か大雑把な箱を作って、レッテルを貼ってその箱に入れてしまうことで安心しよう。


自分が反応してしまうそれらを「非電源系的」と形容するのはどうか。

「自分の周囲の実感はさておき、**ということにしたい」というのを「**である」と無条件に言い切ってしまうのが、「非電源系的」な発想の特徴。

  • 自分の実感はさておき、初心者にはニムト・ワーバスということにしたい。
  • 自分の実感はさておき、ボードゲームが「最近キてる」ことにしたい。
  • 自分の実感はさておき、趣味としてのボードゲームはアリ、ということにしたい。
  • 自分の実感はさておき、奥さんとゲームでコミュニケーションできることにしたい。

なんでも入るな、それだと。

これは一種の「べき論」か。

まぁ「非電源系」という言葉自体が、自分には、実体のないところに線を引いただけの「そういうものがあることにしたい」用語にしか見えないので、それも含めて、個人的にはいったん葬ってしまいたい。上の主張が間違っている、という意味ではなく、別に否定も肯定もできないので、なるだけ、見えないところにしまっておきたい。

「おひつじ座の男性」は存在するかしないか、といったら、存在するけれど、そのことに、統計以上にとりたてて有為な意味を盛り込むのは呪術ですね、というのと似てるかな。

でも

「でもほんとうに、ネットとか見てると流行してますよ!」

……ネットってツイッターのこと? ツイッタードミニオンとかワードバスケットの文字をよく見る(「やってみたいなぁ〜」含む)っていうのが流行の定義なら、まぁそうなんかね、とは思う。そういう観測をしたことを流行と定義した、ということに、それ以上のなんの意味があるのかは、知らないけど。

追記

ここ数日の、五輪選手の腰パンの話を仄聞して、なんか書く気になった。

腰パンの話と、この「奥さんにボードゲームを趣味と思って貰えない」話を並べて考えるに、相手とルールを共有するのに失敗しているのに気づかずに、射程の長い「べき論」を闘わせてエネルギーを消耗しているという不幸は、けっこう根深いのではないのだろうか。

あるいは、「べき論」から梯子を一段上がって、「価値観は人それぞれだってw押し付けイクナイよw」とかいう相対論に引きこもるか。

追記2

「べき論」を嗤うつもりはないけれど、ボードゲームが好き、って言ってる人が、ルールの共有や約束の範囲に関して無頓着だったり、「非電源系的」論法でねじふせようとするのを目にすると、どうしてだろう、と思う。

例えば、先日遊んだゲームでは、面子の一人が時間がなかったので、5ラウンドまでやるゲームを4ラウンドで切り上げた。そのとき面子は、「なら、このラウンドで終わるという前提で動けばいいんですね」と、行動を切り替えた。

こういうことは、日常茶飯事に起きる。そんな局面に、常識やマナーなどの「べき論」を持ち出す人は、まず、いない。その場の約束を再設定して、その場の面子がその約束を履行するように、行動を調整するだけだ。合意さえすれば、ゴールが多少変わるだけで、誰もそのことを「折れる」とは思わない。

奥さんが「ボドゲキモい」っていう感想を述べたとして、それを「一緒に遊ぶ」ことで、相手にこちらの価値観を丸呑みさせて解決できると信じるのは、じつにナイーブだと思うし、どうして、対話と約束と行動の調整の話にならないんだろう? と思う。

追記3

かなり話が捻れているな……