シャーロック・ホームズは落語である(2)

風呂で読んでいた「〜の冒険」を、ようやっと読み終える。

以前に書いた感想を言い換えると、ホームズとは「オレンジの種五つ」から「ぶな屋敷」まで、格段に広い守備範囲を持った<語りのシステム>だ、と結論した。それが多くのパスティーシュを生んでやまない理由でもある。

落語に似てるな、と感じたのはそれほど筋違いでもないかもしれない。

たとえば「大金を見つけた貧乏夫婦。夫はその金でのんだくれようとするが、妻の機転で金をどこかに隠して夫に改心を促す」という話を、落語的な語りのシステムで描けば「芝浜」になるが、同じ話にホームズとワトソンが介入することで、結末は同じでも経過の違う話を想像することは容易だ。

(大金を拾ったがどうしていいかわからない、という妻からの依頼→金の出所に興味を持ったホームズが捜査をひきうける→「うちの女房がここに来なかったか」怒鳴り込む亭主→金の出所である窃盗団の話をして脅して返す→「本当なのかいホームズ」「嘘に決まってるじゃないか。しかしある種の嘘は迷える人にとっての真実になりえるよ」→その夜夫が実力行使に→ホームズが窃盗団を装い亭主から金を奪い妻を誘拐する→……もわもわ)

角川文庫版の表紙が、いまふうの漫画のタッチになっているけど、ああいう「キャラクター萌え」「関係性萌え」というのも、それを主軸に話を構成させるシステムではある。でももっと本質的には……

どうぞ、細大漏らさずお話しください。

ホームズのこの台詞によって、状況に対する<語り>が開かれ、そこから(間違いを含んだ)ストーリーが始まる。私たちは、語りのシステムで状況が語りなおされることへの予感に、萌えているのではないのだろうか。

(少なくとも私は、ホームズの台詞の中で、この「細大漏らさず……」系のものが出てくるとグっとくる)

「ぶな屋敷」の結末では、実は使用人が全てを知っていた、という事実が明かされ、じゃぁ依頼人はホームズより先にこっちに聞いてればよかったんじゃん、ということになる。

しかし私は、この話を、話の合理性のために読んでいるわけではないので、それで「壁に本を投げたくなる」ことはない。

ホームズとワトソンというシステムが状況に介入して<語る>ことで、ある話は簡単に解き明かされ、またある話はややこしくなってしまう。そのこと自体の面白さを感じたくて読むのである。

追記

ひとまず、自分の中で「ホームズの正典ではほげほげ……」周辺に漂っているウザい空気を解体できた……。これで映画にどんな出鱈目なホームズが出てきても逆上することはない……たぶん……。