貰ったゲームの控え(「もしも、ボードゲームが無料でもらえるとしたら」 その2)
「皇帝の影」をもらえればいいと思っていたのだが、こんなに……。
「海賊組合」「フィジー」「皇帝の影」「マヤ」はプレイ経験あり。
a.
貰ったといっても、気分的には、預かった、なのだが、この「預かった」感じは、すごろくやのゲームの割引キャンペーンに金の面から「失敗」の「成功」の言ってた向きには通じないのだろう。
なぜ「預かった」気がするのか。貰った側には、託されたものを面白くする義務が生まれるから。
代金を払って買うと、代金を払ったぶん、ゲームのルールやシステムが、自分に何かの面白さをもたらしてくれるように錯覚する。しかし、実はそういうことではないのだ。あなたを面白くすることができるのは、あなた自身しかいないのであり、金を払ったから面白くなれるわけではないのだ。
b.
無償でこういうものを貰ってみると、面白くする義務が、自分の側に負債としておっかぶさる感じが理解できるのではないかと思う。
前にも書いたけれど、私も、ゲームに関しては、自分の「面白くする」責務を果たしたと感じたもの、自分にはそれが無理と感じたものに関しては、人にあげることにしたい。
貰う側が、無料で貰うものを選べるのなら、ゲーム性もプレイの面子の確保も確実で、安価なゲームを選ぶのは、賢い答えだ。「すごろくや」のTwitterキャンペーン関連記事を参照のこと。(鉄板でお安いものを貰ってくるという、その選択は賢いかも知れないが、端から見ててそんなの面白くもなんともねぇんだよ! とも、言わせて貰う、という主旨。)
あげる側としては、人にも、この負債の感覚を味わってほしいと思う。面白くするということは、労働なのだ。
そのようなことを考えながら、夜中の1時、貰ったボドゲを背負って、タクシーに乗った。
c.
実際、私も、貰ったもの全てをきちんと遊べるかは疑問だ。特に、リストの下の三つは、受け取ったとき、抱えた箱の中から、あの「煮ても焼いても食えない感じ」が、饐えた匂いとともにたちのぼってくるのを、感じた。
プレイした記録を日記に書くことを考えてみる。私は、食えないゲームをおもしろおかしく書く「クソゲーハンター」になりたいのではない。ましてや、「おすすめ!」「マニア向け!」などの、バイヤーズガイドをものしたいわけでもない。私は、他人様の購入の参考のために書いてるわけじゃない(結果的に参考になることはあるとしても)。
私はこれらのゲームを「たぶんそんなに面白くはないだろう」、という予測込みで、記録を書こうと思っているのだが、それは「購入の参考」とはなんの関係もない。
自分の理性と感性の灯りが、そのつまらなさの毒の前に無事でいられるか、試しに行って帰ってくる、試練の旅のような日記を書くべきではないかと思う。つまらないゲームほど、ルール読みとプレイのシミュレーションを、解像度を上げて、綿密に行うべきなのだ。
……「タダでものを貰うと、こんなに哲学的になれる話」でした。
ま、ひまびまにやります。ありがとうございます。