趣味の終わり、非歴史化

電子書籍の衝撃』をぱらぱら読んでいる。

この本で「アンビエント化」という言葉を使って言われていることは、自分がボードゲーム買うのに飽きてるとかなんとかいう話とダイレクトにつながるので、「消費興味ないとかあいつは何を意味不明なことを言ってるんだ」と思ってる人は、読んでみられるとよろしいかと思います。(この二つ前のエントリに私に小銭が入るアフィリエイトリンクがあります)

こないだ、引っ越しで出てきたボードゲームをタダで貰ったとき、味わった感覚があったのだが、そのときの日記では、うまく言語化できなかった。

その感覚を、この本に沿った形で大袈裟に言うと「みんなで無料でゲームを他人にあげはじめたら、<歴史終わった>って言えるな」となる。

ノーコストで貰えて、そのストックが、一人では体験しつくせない量ある状態を想定すると、そこでは、今の流行というのは関係ないし、「世間的に名作と言われているかどうか」すら、関係なくなる。私は私の必然性のままに消費対象を選ぶ。

今年の年間ゲーム賞受賞作に意味などなくなる。今年の大賞受賞作を、私はすぐ遊ぶかも知れないし、10年後に遊ぶかも知れない。

今年出たものをすぐ遊ぶべき、というプレッシャーがどこから来るか、というと、それは単に「買い続けているから今遊んでおかないと消費が間に合わない」「すぐ絶版になるから買えなくなる」という、非本質的な事情による。

一度遊んだもの(あるいは、遊んですらいないもの)を無料で(交換ですらなく)人にあげてしまう、という謎の経済が成立すると、この事情はどーでもよくなってしまう、ということに、気がつく。

「あの人、これくれたとき、なんかニヤニヤしてたなぁ……ちょっと遊んでみっかな……」みたいな、極端に薄い動機であっても、元手がかかっていないので、箱を開けて遊び始めてしまう。

そうやって選んだものが面白いか? さぁ。面白くするのは人間の側なんで。どうやっても無理なものもあるかも知れないし、努力して面白くなるようなものも、あるかも知れない。金払ってないんだから、そこにエネルギーを使うべき、ということになる。

歴史が消滅して、誰にでも通じる傑作より、そのときその人が必要なものが選ばれるようになった後、私が問題だと考えることがある。それは、自分の必然性の歴史を書き留めるスタイルやシステムは、十分整っているのか? ということだ。

他人の歴史を辿ったり、他人の歴史と自分のそれが共振したりする機会すら、ないのなら、私たちは、ほんとうにばらばらの「人それぞれ」の島宇宙に切り離されてしまう。

自分の歴史を書くのに、たとえば「クロスレビュー」のようなスタイルや、「壁本」「地雷」「傑作」といった語彙は、必要だろうか? 「これから買う人のためになるか」「作り手やショップを批判するのはよくない」なんてことが、どれほど気になるだろうか?

(このことを考えながら気づいたのだが、島宇宙の中で自分の欲求をでっちあげる仕組みは、mixiアプリなどのソーシャルゲームで、かなり良く機能しているように思える。不本意なことだけど……)