フローズン・リバー
主人公の母にも、モホーク族の相方にも、およそ倫理というものが存在しない。あるのはただ「共感」のようなものだけ。君は赤子をとりもどすこともできるし、バッグに入れたまま立ち去ることもできる。わたしたちは「共感」でしか正気を保つことができない、というのがこの話の主題ではないだろうか。
息子がバーナーのようなものを使っているのをとがめて、主人公が怒るシーンがあるのだが、実はそれも、「しつけ」ではなく、主人公の個人的な感情が根にあったことが、終盤明らかになる。
「私はこうするべき」「あなたはこうするべき」という、倫理が、ないのだ、ここには。
ある程度の落とし前が、つくべきところについて、物語は終わる。でも、落とし前をつけることで、彼らが本当に許されたということにはなってない。
息子が、詐欺をはたらいた女性に謝るシーン。見ている側は「あはっ、いいの? そんなんで済んで」と、拍子抜けする。謝って、何かがいい方向に向かう気はしない。だが、ほかに、どうしようもないのだ。謝って済んだことで、ただ「あぁ、訴えられなくてよかったな」と思うだけだ。ほんとうの罪もほんとうの償いもないまま、彼らは、部族や社会から、なんとなーく許されて、生きていくしかない。
「かくあるべき」のない場所で主人公が言えるのは「強気な不動産屋に気をつけて」というアドバイスのようなものだけで、だからこそ、その言葉は切実なのだ。
気をつけて。
話の展開はよかった。典型的なアイアンクロー型映画といえばいいか(今名前をつけた)。あるべきところであるべきものが語られる安心感。
78点。