ボドゲにまつわるなんかかんか

「<誰かこのゲームやりませんかー>と、なんの情報もなしにその場で募るのは寒い」…と自分が書いてしまうことについて、自分の主張と偏りを書こうと思ったけど、これはそのうちまとめたい。

いきなり書くと、直したりナニしたりでアホみたいに時間食われる。

しかし、いつ書くかはわからないので、自分にとっての一番大きなフックは書き残しておこう。

a.

「仮に、面子の全員が初対面で、次会う可能性も低いとする。そこでAさんが<このゲームやりませんかー>と、見覚えのあるゲームを指さして提案したとする。BCDさんは、とくにそれに反対する理由はないなら、普通は、そのゲームを遊ぶわけだが、BCDさんが、Aさんに付き合う積極的な理由は、あるのだろうか? あるとしたら何だろう?」

「寒い」から出発してこの疑問まで行き着けるほど念入りに書ける気がしないが……。

上の疑問は、具体的には、こんな感じの問題に書き換えられる。

「田舎のボードゲーム好きが東京に数日行くことがあったとする。そんなとき、ボードゲームで遊ぶためだけにどこかのオープンなサークルに、いきなり顔を出して遊べるか。」

私ゃわからんな。本当に見ず知らず(ネットでも面識なし)の人ばっかりしかいない場所なら、たぶん、行かない。

でも、人がボドゲの魅力を語ってるのを読んだりすると、なんか、100%アウェイの場所でもボドゲの魅力さえあれば、知らない人と友達になれそうに書いてある、ように読めたりするんだよ。

私の個人的な実感としては、そうでもないわけだ。私個人の資質が狷介なだけなのか、言語化された「魅力」のほうがタテマエに陥ってしまっているのか、知らないけど。

もしその、語られた「魅力」が、どこかで実感を反映しないタテマエになっているのだとしたら、そのタテマエを守ろうとして、知らないうちに、行動が制約されている可能性もあると思うんだよね。

a2.

まぁ、「勝ち負け」という軸が太い人だと、いきなり知らない場所に行っても、そこそこ遊べるとは思う。しかし「勝ち負け」に引き寄せて考えてしまうと「ならボドゲサークルってのは雀荘みたいなもんか?」という疑問も浮かぶ。しかもボドゲは金を掛けないし、何のために遊んでるんだろ……勝つ快感? 誰に? 初対面のスキルも発想もよー知らん人に対して?

などと考えると、勝ち負けのほかに、何か遊ぶ理由があって、その理由を愛でているから、そんな場所に行くのではないか、と思える。

その「勝ち負けとは別の何か」に照らし合わせて、私は「<誰かー>って声かける以外に何かもうちょっとないのか」と思ってしまうのだが……。

b

言い訳しておくと、私は遊んでいるその場で<誰かー>という呼びかけが起きているのを見て「寒い」と思うわけではない。口に出さないし、思いすらしない。その場では、自分の卓の満足度を高めたいと思っているし、他の人も何らかのやりかたでそうなればいいと思う。<誰かー>で卓が立てばそれでかまわない。

しかし、<誰かー>の他にも、やり方はいくらでもあるのだ、とは、言っておきたい。

それを視野の外に追いやって、卓を立てたいなら<誰かー>って誘えばそれでいいじゃん、とは、思えない。<誰かー>を成立させているものが(「思いやり」とか?)、この遊びの魅力の本質なのだ、とは思えないから。

だから、事後的に振り返って「<誰かー>でなんとなく毎回卓が立っちゃうのは、ちとおかしいっていうふうに、考えてみたほうがいいんでないの?」と思う。

ときどき「**の会をやりましょうよー」「**だけ遊ぶ集まりをやんなきゃですねー」みたいなことが雑談で出る。そのうち、どれくらいが実ってるだろう? 実ってないのは、<誰かー>でしか人を募る方法を知らないからなんじゃないのかしらね?

「<誰かー>で募ってる人を、寒いわ、とかスルーするサークルは嫌だ」というふうに言われるのはまぁわかる。私はそんなことは言ってない。そりゃ<誰かー>って言ってたらそれに協力しますよ。そういう部分はクリアされてるという前提で、「ところで、あの<誰かー>はずっとあのまんまで、なんの工夫もないの?」ということを言いたいのだった。

追記

ブクマついてる。

だからってわけじゃないのだけど、上を書きながら、rAdioさんが、ゲームする相手と「友達である」ことにこだわる理由というのもわかるよな、などと考えていた(この日記の過去のコメント参照)。

「友達」になるというのは、ボードゲームではかなり重要で、「なぜこの人とこのゲームしなきゃいけないの?」という疑問に対して、「友達だから」という理由はオールマイティに使える。気の置けない仲間と遊び続けるという前提だと、上に書いたようなことは、考えなくてもよくなる。

私が、遊んでいる相手を「友達である」と思ってない、ということではない。友達というほど親密ではないかもしれないけど、仲良くなるつもりでは、やってる。

ただ、サークルで月一回会うか会わないかの間柄というのは、気がつくといなくなっちゃってるくらいの間柄なんですよ。実は転勤で今月が最後なんですどうもどうも、なんてこともざらにある。あれっ、そういえば**さんここ数ヶ月見てないね? なんてのも。

「友達である」という状態になって遊ぶのは、自分も望むところだ。しかし一方で、その状態は、簡単にご破算になってしまう。趣味を回していく駆動力として見たとき、「友達」というのは、必ずしもサステナブルな機構ではない。

「あの人が転勤しちゃって、なんか、ボードゲーム自体やんなくなっちゃったなー」ってことが起きるわけだ。

そういう、壊れやすい地盤の上で遊んでいるのは、仕方がないことではある。人それぞれに、事情がありますからね。

でも、それならそれで、もうちょっと、その都度、お互いのやりたいことを引き出していけたほうが、いいんじゃないのかなー、と思う。

追記B

私が大好きなゲームのひとつに「エル・グランデ」というのがある。

これは傑作で(カタンの翌年のドイツ年間ゲーム賞を取った)、私がサークルの定例会にこれを持ち込むたびに「あぁ、エル・グランデ、いつかやってみたいですね」と、人に言われたりする(社交辞令も含んでいるのかもしれないが)。

でも、定例会では、その人は、その時間やりたいことがほかにもあって、その人と「エル・グランデ」を遊ぶ、という機会は、なかなか訪れない。

それでもう数年、ことあるごとに、「エル・グランデ、いつかやってみたいなぁ」「そうですね、あぁ、今日は無理か…」という会話を交わし続けてたりする。

「いつか安楽椅子探偵の**回を見る集まりをやりたい」「そのうち本腰入れてブリッジに取り組みたい」いつか、いつか……。

優先度の高くない、口約束で交わした宿題が、山のようにある。

全ての約束は果たせないだろう。約束を果たすまえに、私か、約束を交わした相手のどちらかが、何らかの事情で、いなくなるだろう。

どうやったら、その約束を、少しずつ、果たしていけるだろうか? 全て叶えることは、無理だとしても。