最近のオレとオモシロ

メモからサルベージ。

海外エンターテイメント小説(ミステリ/スリラー)に感じる面白さは確かに一つの面白さの型でしかなく、それ自体は選択的なもの(他の面白いものを選んでもいい)ではあるけれど、海外の「映画」「ゲーム」で、制作に似た方法論が採られていることは、もっと重く受け止めていいのではないかと思う。

洋画が好きになれれば、最近の洋ゲーも翻訳ミステリもだいたい同じ回路で楽しめるということに、最近気がついた。

洋ゲーは「映画化」してるのではなく、語りの手法を確立してメソッド化しようとしているので、結果的に「映画」にならざるを得ないんじゃないか。

筆運びのいい娯楽映画や娯楽小説で感じる、注意や興奮を上手にコントロールされている安心感を、洋ゲーから感じることが増えたと思う。「バイオショック」の導入、鯨が出てくるまでの流れとか(ゲーム本体はやってませんが……)。

映画とゲームと小説の間で、面白がりかたにシナジーがはたらくので、一旦その水になれてしまうと、そこから出たくなくなる。ここで経験を積んでいけば、少なくとも自分が死ぬまでの時間くらいは退屈しないんじゃないか、という気がしてくる。

日本製のビデオゲームの、やったからといってどこにもつながらない蛸壺感が、窮屈に感じられるようになってくる。(水平方向へのシナジーがないから、シリーズの歴史性に固執するのだろうし)

これは所謂「自由度」といった話ではない。

たとえば「ベヨネッタ」みたいなものをおっさんが見たときの「確かにすごいけど、これに今更時間をつっこむ必然性はビタイチ感じんわー」という感覚。

同じ時間つぶしであっても、ものによって必然性を感じたり感じなかったりするのは、将来、他の経験のなかで引用される可能性に、差を感じるからではないだろうか。

Red Dead Redemptionスクリーンショットを見たとき、「あぁ、これで完全に日本的な感性は無視されて、ビデオゲームに於いても、洋画的教養が要求されるようになるのか」と、恐怖に近い感情を抱いた。

これからもビデオゲームを楽しみたければ、翻訳ミステリや洋画を並行して受容するほかない。

まぁそれはそれで楽しいし、のぞむところではあるのだけれど。

おれもなんか保守的になったなー。