ザ・ロード
私の見たかったゾンビ映画。今まで見たどのゾンビ映画より息が詰まる。
家庭を持っている人なら、私よりも没入できると思う。没入というか、見始めて「あぁ、これはゾンビ映画として理解すればいいな」と、ホラーやSFの認識フレームを起動できなかった人は、絶句して正視できないかも知れない。
まぁ、ゾンビは出てこないんですが。
ゾンビが出てくる代わりに、全世界的に「悪魔のいけにえ」になっている、という、もっと救いがない状況。そりゃぁ、そうなるよ、必ず。
「悪魔のいけにえ」含め、登場人物が取るそれぞれの行動、私がそのどれをとっても、おかしくない。この世界にはゾンビという不可解な他者はいない。
つまり、ゾンビはどうでもよくて、「世界の終わり」が見たかったのだな、私は。
ラストがよい。あの問いかけがあるだろうことは、わかってはいても、胸を打たれる。ラストショットも、鉄板というほかない。でも、破滅を描く映画はこんな風に終わらなきゃだめだよ、と思う。
なぜ最後の男(ガイ・ピアース)が一見しただけでまともな人間に見えるのだろう、と思ったが、この世界では、まともな人間は汚れて髪や髭が伸びているのだよな。
映画はこれでいいが(映画として終わるべき終わり方をした、という意味)原作はどうなんだろう、と思って、そのあと書店でちょっと立ち読みした。小説も映画そのままだった。しかし、この映画の内容が、そのまま小説として描かれているというのは想像が難しい。何がどんなふうに、書いてあるんだろうか。
……と、気になったので『血と暴力の国』から買ってきて、ぼちぼち読むことにした。これは「西部劇小説」として、前から読もうと思っていたんだけど。
本をカウンターに持って行くと書店員さんに「ザ・ロード見ましたか」と聞かれた。「えぇ、すごくよかったですね」などと受け答えしたが、ごめんなさい、私コーマック・マッカーシーの小説を読むのは初めてだし、映画の前に原作を読んだりしたわけじゃないんです…。
冒頭、髪を下ろしたヴィゴ・モーテンセンのネルシャツの後ろ姿に「やばい、こいつは夫の顔をしてはいるが特殊な訓練を積んだ殺人マシーン…」と思った(ヒストリー・オブ・バイオレンス)が、そんなどうでもいいことを忘れてしまう、いい映画だった。
82点。
ノート
- 谷底に奥さんの写真を捨て、指輪を捨てようとする父親。すると、観ている私の頭の中では声がする。「アラゴルン!」
- だって、わざわざそんなもの撮らなそうじゃないですか。いくら指輪に気持ちがこもっていたとしても、あそこで普通の意味で指輪を撮るのは、ちょっとくどい気がする。
- 指輪が単に奥さんとの関係だけでなく、その周囲の「ゆたかな暮らし」「欲」みたいなものも表しているのだ、と考えてみる。その記憶がよみがえる後半、ピアノに向かって涙するシーンは、父親は単に個人的な記憶だけのために泣いていたのではない、という気がする。人類の持っていた豊かさが、根こそぎ失われてしまったのだ。
- そういう映画的な意図が込められているかどうかは原作を読めばわかることですが…
- なぜあそこで写真を捨てる気になったのか、というのは別の話か。
- ガイ・ピアースの下の子供は、世界がああいうことになった後、小さい子供がいる状態で作ったのか…いやそれは考えにくいな。家族に「なった」んだろうな。
- 主人公夫婦の会話にも出てくるように「こんな世界で子供なんて作っていいのか?」というのは、今日日の大人が持っている普遍的な不安だ
- 映画のあの最後のショットを見ると「そんなことができるんだ…」と、なんともいえない気分になれる