未来を生きる君たちへ

これは10月観たもの。印象深かったので、書いてあったものを手を入れて上げる。

スザンネ・ビア監督。

notes

日常の中に入ってきて衝突するいくつかの理屈の問題として観ていた。暴力の問題にしちゃうのはもったいない。

具体的に言うと:

子供たち(特にクリスチャン) 「やらなきゃやられる」「やるってことはやられていいんだな」に代表される等価交換則に基づく理屈≒ネットの糞理屈
車屋のおっちゃん ヤンキー・チンピラの理屈
クラウス(クリスチャンの父) ノンポリ
アントン(医師・エリアスの父) リベラル

みたいな感じ(誇張を含む)。当然一番まともなアントンに感情移入しながら観る。途中まではアントンも立派に見える。子供を諭すためにわざと車屋のところに出向いていって、理不尽なビンタに耐えたりする。そして子供に、こう説明する。

「いいかあいつはどうしようもない莫迦なんだ、莫迦に殴られたからって屁でもないのさ」

このへんで、「えっ、そんな説明なん?」と疑問がよぎる。徐々にアントンの足場が怪しくなる。

アントンは妻と別居状態で、そのきっかけになった浮気のことを許してもらえていない(一番身近な人の怒りすら、どうすることもできてない)。アフリカのキャンプでは、診察を受けに来た地元の悪玉(妊婦の腹を割いて胎児の性別をトトカルチョする、同情の余地のない人物)を保護するのをやめてしまう。

ここでアントンの怪しさを通じて突きつけられるのは「暴力には赦しか復讐か」といった問題ではない、と思うのだ。

アフリカのキャンプで、悪玉を民衆の手に渡してしまって呆然とするアントンの顔を、私なりに翻訳すると、こんな感じになった。「おれは何でそう意固地に自分の理屈を守ろうとしているのか? おれが自分の理屈を守ることで世界がよくなると思っているのか? おれはその理屈を通すことで、間違った理屈を振りかざす悪の勢力と戦っているとでも思っているのか?」

この段落は映画と関係ない話を書く。今日も、慶応大学の女子学生が、見知らぬおじさんの写真をネットに晒したかどで、逆にネットの人々に晒されの刑を受けていた。そしてそれにブックマークコメントがついていた。「こうやって晒しているってことは、自分も晒されていいって思ってるんだよね」「自分がやっていることがどういうことなのかわかってないのかな」……その剥き出しの「因果応報」の理屈に、私は身の竦む思いがする。私はその理屈には異論があるし、晒しの刑なんてリンチそのものだと思うが、私にはそういう人を諭したり、身体を張って喧嘩する気なんてない。「女子大生も、それを晒す奴らも狂犬なのさ」と、自分から切断してしまうこともできない(そうして、どうなる?)。私もまた途方に暮れる人のひとりだ。

映画の中で、ある事件が起き、その事件を乗り越える結論としては、「身の回り・次の世代の人に、自分にとっての生と死の真実を一つずつ教えていくしかないのだ」という、「赦しか復讐か」を越えた話になる。そのことに慰められた。

解せないのはPG12であること。道徳(あるいは、ネットリテラシー)の授業として、小学生に年1回見せるといいと思う。まぁ映画館でも保護者が同伴すればいいのか。実際Denkikanで親子連れが一組これを観ていて、立派だと思った。

「殴ってる奴は、殴られても仕方ないと思ってるのさ」

いや実際、そうなのかも知れない。それが正しいとしても、そんなふうにしたり顔で理屈を言う人は、理屈というものの醜さを味わって、いちど言葉を失ってみてほしいと思うのだ。

この映画では、子供が「殴ってる奴は殴られて当然」という、<等価交換・自業自得則>の理屈を行使した結果として、いじめっ子の後頭部を携帯用の空気入れでぶん殴って、ボッコボコにする。

「晒した奴は晒されていいと思ってるんだよね……」という等価交換則をネットで駆使する人が、このシーンを目の当たりにしたら、なんと言うのだろう。次の理屈は、「あぁ、そりゃやりすぎだ、暴力でやり返すのはいかんよ」「ものには程度があるだろ」「まずは教師に言えよ」とでも、言うだろうか?

78点。