ハウスメイド

予告でひどそうだったので、どうだろうと思っていたのだが、やっぱりひどかった…。

観た後「ハウスメイド」でタイムライン検索すると、テレビ番組で「秋葉原でハウスメイドのサービスがww」なんてやってて、まぁおもしろい偶然ですね、とか思ったり。予告で「<母なる証明><息もできない>を超える衝撃」なんて煽った担当者は仕事かも知れないがこっち入ってくんな、と思ったりしました。はい、個人の見解です。

映画自体のルックは、カメラアングルも凝ってるし、そんなに悪い感じはしないのですが、登場人物の性格や価値観が全く理解できない、というか、理解できるように作ってないというのが、全体的な感想です。

主人公は街の精肉店で働いています。あるとき店の近くで飛び降り自殺があり、それを目撃します(何かを暗示しているようです)。そしてその後、以前から申し込んでいた(なんで?)メイドの求人に空きができ、大金持ちの家から身元調査のためその家のメイド長がやってきます。多少の面談の後、採用。そして電車を待つ主人公のカット。そして次のシーンでは大金持ちの家で女主人を前に挨拶しています。このへんで「あれ?」と思い、以降、その「あれ?」が何度も繰り返されます。

インタビューなどを探すと、この映画では韓国の階級社会を描きたかった、みたいなことを監督が発言されていました。主人公は金持ちの家にやってくる一般人のメイドなのですから、ふだんの世界から、ハイ・ソサエティの中に飛び込んでいくのであれば……電車の中のゴミゴミした庶民の会話→遠くから屋敷が見える→屋敷の門の前に立つ→そっちは門じゃないよ→わぁやっぱりお金持ちは違う…的な描写があって、庶民と金持ちの違いを際立たせるようなことをすればいいと思うのですが、パッ、パッ、と画面が切り替わって、いきなり金持ちの家の中で立っています。それが小気味いいということでもなく、ただ、「あれ、描写が飛んだ」というふうに取れました。

主人公は「天然」として描かれており、その天然を際立たせるための演出として、戸惑い描写みたいなものを省いていく、ということなのかも知れません。しかし、それにしては「天然」も不発だし、後半主人公は復讐の念を抱きはじめ、「天然」とはいえなくなっていきます。

この金持ちの特徴は「ワインを飲む」です。いまどきそんなものが金持ちの記号になるのか不明ですし、この金持ちたちは自分たちが飲み食いしているものに拘泥しているように見えないし、気の利いた会話を全くしないので、金持ちの度合いがわかりません。突然ピアノを演奏したりします。家はそんなに広そうに見えません。いつも同じ階段が出てきて、よくその回りを歩いています。バイオハザードの洋館より狭そうです。

あらすじの続きを書いていませんでした。主人公は主人に誘惑され(ワインをすすめられます)、犯され、妊娠します。周囲は慌て、金で解決しようとし、無理矢理中絶させ、主人公を追放します。主人公は復讐のために家をまた訪問し、皆の前で首つり焼身自殺をします。そして、主人公が子守をしていた5歳くらいの子供は、女主人の娘ではなく妹でした(ネタバレ)。おわり。

こうやって書くほど、映画自体はつまらなくはないのですが、事前の紹介記事やググった感想などで「ラストの衝撃で全てが収束する」みたいなことが書いてあったりして、全く理解できませんでした。収束って何が…。妹だったからってどうなの…。

まさか「衝撃」って首つり焼身自殺のことだとしたら、申し訳ないですがそこは一番笑ったところです。

それより、メイド長は昔からこの家に入っていて、そこで起きたことを見ていて、おそらく歴史は繰り返されていると想像されます。それなのに、メイド長が昔妊娠させられて生んだ子供がいる、あるいは堕胎した、みたいな話が全然ない…。ときどき金持ち家族がメイド長に「息子さん就職決まった? ほら、とっとけ」って金を渡しますが、それだったのでしょうか…。

あと、最初の飛び降り自殺は何だったのか…何か(飛び降りた人もまたメイドのような搾取される職業だったのだ! 的なこと、あるいはもっと直接的に、主人公は先に自殺した女性の後に入ったのだった! 的なこと)を暗示しているのかも知れません。つまらんけど…。もしそういうことを言いたいのであれば、何かそれをつなぎこむヒントや象徴を盛り込むのが映画ってものだろうと私は思っているので、それを自分が読み取れなかった可能性も高く、まだまだ映画は奥が深いな、と思いました。

私がひねくれて見ているから低い評価になっているだけなのかなぁ、と思いながら、感想をちょいちょい見て回っていたのですが、そういう私の個人的な問題とは別に、映画をとりまいている言葉の状況は、場所によってはほんとうにひどいのかもしれないな、とも思いました。「ラストの衝撃」とか「伏線の回収」とかいう言葉は今日日誰もが使いますが、そういうのが気持ちいいのが映画の価値ということになっていて、そういうビックリがあんまり上手に機能していない場合、新聞の文化部の方などは、韓国の階級社会かなんかに目を向けたことにして、感想をでっちあ…失礼、やっつけているのかも知れません。

それはまぁ仕事だからお疲れ様です、くらいに思うのですが、それを読んだ人が、同じように「韓国版<家政婦は見た>! ラストは衝撃的! あと、韓国の階級社会の問題なんかも感じました♪」とかブログで感想を書き始めるのだとしたら、いやー、わかんなかったら「私わかんなかったです」って書けよ、と思います。

いろいろと文句に近いことを書いていますが、単純に、そりゃ私の目が節穴だ、ということもありえます(常に、ありえます)。ここに書いた皮肉抜きで、もうちょっとこの映画のうまい見方があるとは思うので、見方を教わりたいです。

この映画には下敷きにされた「下女」という作品があり、お詳しい方はそういった話をとうとうと書いてらっしゃるのですが、そういう予備知識を抜きにして、「ここでこういうことやってるのはこういう意味だよ」みたいな、映画的な意図みたいなものは、ちょっとはあると思います。いや、思いたいので教えてください、という感じです。

たとえば、主人公が使用人部屋のベッドでネットブックを見てるシーンが二回出るのですが、あれは、何かのサイトを見てるのでしょうか。映画は2時間しかないのですから、二回モノが出てきたら、それに何か意味を持たせようとしていると考えたほうがいいと思います。それから、主人公のお母さんはなぜ土まんじゅうみたいな墓に埋葬されているのでしょうか。主人公の右太ももにはなぜ火傷のような跡があったのでしょうか。主人公が野外で放尿するシーンが入っていたのは何故でしょうか。メイド長が密偵のように大奥様に通じている現在には、どういった過去が想像できるでしょうか。それから、それから…。

私が検索してあたった、褒めている感想の文章には、そういう「ここでこういうことが起きた」というのがあまりなく、とにかく映像が、表現が、とかおっしゃっていて、ピンとこないのです。

最初からラストを知って見たほうが見方が整理されるんじゃないか(ラストで「実は妹」などと明かされて、そのことを念頭に置いて観たほうがいいのか、気にはなるけど、確認のため二回も見たくない)と思いましたので、しれっと書きました。

43点。

この長い文章の趣旨

私はこの映画のことがそこまで嫌いなわけではありませんし、いいところもあったと思います(読めば判りますが映画に対しては「わからない」「なんかおかしい」のであって「嫌い」ではないのです)が、今回、映画以上にこの映画の感想がわからなかったのです。


私が知っているインターネットでは、

  • 「嫌いに思ったもののことをそんなあしざまに言わなくていいじゃない、ポジティブにいこうよ」
  • 「そんな顔真っ赤にして書いて誰と戦っているんですか」
  • 「嫌いならそんなに長々書かなくてもいいし、それを好きと言っている人をたたかなくてもいいですよ」

みたいな言葉をおもに掲げて、ネガティブな方向の言葉を書くことそのものをなんとなーく避ける傾向の人がいらっしゃいます。それはけっこうなことですが、ネガティブなことを行っている人に対して「誰と戦っているんですか」とか「顔真っ赤」とか評するのはどうなんですか。まぁはっきり言いますけど、それ何も考えてないでしょ。元に何が書いてあっても、なんにも考えずにそれで返せますから、人を茶化すのに便利ですよねー。ファック。

…それはともかく…。言っていることは判らなくもないです。否定的なことを書くか書かないかといえば、書かないほうがいいのかも知れません。それを「ポジティブ」「ネガティブ」「叩く」「戦う」という大ざっぱすぎる箱で整理してなんか言うことには疑問が残りますが。

少なくとも私は文句を書くとき「叩く」つもりで書くことは少ないです。つか叩くって何だよ、って感じですね。以前どっかで、「宮崎駿の作品を叩いたらなんとかかんとかしてブーメランw」みたいなのを見たことがありますけど、そういう感じなんですかね。「叩く」とか「煽る」とかいう言語感覚の持ち主に言いたいのは、どんな相手でもインターネットの評価という同じ土俵でどうこうできると思ってるのかも知れないが、お前の言ってるのそれ紙相撲だから、ってことですね。バカだろ。

創作物の感想で、否定的な言葉をネットに置けば、それが「作者さん」に伝わって「作者さん」の「心が折れ」て、もう「創作活動」してくれなくなる、みたいなことを言う人もいますね。物が作られるっていうのがそんな単純なことなら、テレビで「せーの、**さいこー!」とか言祝いでいる映画は、次回作は監督が超やる気出して大傑作になってますよね、テレビで「最高」って言われてるんですから。「ポジティブな感想を書くことで作者さんの心が折れないようにしましょう」っていう素朴な発想って、つまりそういうことじゃないんですか。

……話それた。まぁ、それは言い過ぎですけど……。

ひょっとして、「ネガティブよくない」な人というのは、ポジティブ最適化されるあまり、わからないことを「ここがわからない」と書くことすらできなくなっちゃってるのではないか、と、ふと思ったのです。

公開前に、この映画の映画評を集めたものが、映画館の壁にぺたぺた貼られていました。こんな映画でも絶賛のオンパレードなわけです。そりゃ、そういうところに載るものには悪口は書けませんから、評そのものはしょうがないのですが、映画を観た後、ツイッターやブログの感想を検索して見たときの感じが、「えっ?」っていうくらい、壁の提灯記…あぁ失礼…ポジティブ記事に似ていたことに驚きました。

ポジティブ最適化された人が、この映画を観たときのことを想像します。映画館の壁に貼られていたテキトーな評を見て「おもしろそう」と思い、そのテキトーなガイド(これは韓国版「家政婦は見た!」ですね、とかそういう)に添った頭で見て、よくわかんなかったところは「んー、微妙だったかもw」とか、やんわりと流すわけですね。

「何テキトーこいて書いてるんだ、<家政婦は見た>とか全っ然関係ねぇよ。あとベースの映画があるとか韓国の階級社会がとか書いてあったけど、その知識が評のなかでこの映画につながって行ってないならただのこけおどしだろ。シーンの意味わかんねぇとこいっぱいあるし、単体でこれはつまんねぇよ!」……と、考えたり言ったりすることは、封じられており、その封じられた頭で、読んだ評と似たようにあたりさわりのない、感想ツイートなりブログなりを書く。

そうすると、まわりまわって、評を書いた人も、あぁこういう評に影響されて人は映画を観るんだな、よしよし、というふうに思いますので、次の映画でも、またそういう調子でテキトーな評が書かれていくことになります。

それはいいことなんでしょうか。でしょうか、っていうか、私はいやだね。

おまけ

こちらで詳細に映画の内容を紹介されてるのを見つけました。映像は悪くないので、映画館で観てもそれほど損した気分にはならないと思いますが、興味のある方はあらすじででもどうぞ。