最近の再生 (サラの鍵)

サラの鍵(映画)

過去にとりつかれてしまった人達の話、と思って観た。

このあいだ石牟礼道子さんの番組をNHKでやっていて、twitterで見たら「政治は何もしなかった。福島の二年後が水俣のようにならないことを祈る」という内容の感想が上がったりしていた。うへー。そういう人にとってこの映画は「ホロコーストファシズムの非道さを描いた」ものなのかも知れない。

この映画の最後で、ウィリアムはジュリアに「ごめん」と謝る。その意味は何だろうか。デュフォール家のおじさんは、最初頑迷な田舎者に見えていたのに、どうして、(関係ないはずの)アパートの新しい間借り人家族に大量の手紙を送るようになったのだろうか。

もし「ホロコーストファシズムの〜」というテーマだとするなら、事件のことをひた隠しにしていた人々を主人公は非難してもよいはずだ。「あなたたちは語り伝える義務を感じないのか」と。

しかし実際には、個人が出会う歴史とは、どうしようもなく知りたくなったり、書き残したくなってしまう、業のようなものではないのか。業を背負う選択も、背負わない選択も、同等にある。

石牟礼さんは番組の中で「出会ってしまった責任」ということを口にしていた。