「ブルー・ジャスミン」, 愚かな選択
a.
ケイト・ブランシェット主演。旦那役にアレック・ボールドウィン。二つの時間軸を行き来しながら物語が展開し、ある富豪(自称投資業)の妻になった女の、破滅までと、破滅のあとの人生を描く。
飛行機の中から映画は始まる。隣に座った老婦人に、自分勝手な身の上話をまくしたて、金持ちだったアピールをしまくる「ジャスミン」(ケイト・ブラシェット)。どうやら、何かの金持ちだったらしいが、それが破産して、妹の家に身を寄せるらしい…
話自体は、とてもありふれている。「まわりの見えない勘違い女が、自分の生活の基盤のことも善悪のこともなんにも考えないまま破滅してしまって、…」…というものだ。
ジャスミンの勘違いっぷりが秀逸である。
ジャスミンはいつも「ここは私のいる場所ではない」と思っている。だから、妹の婚約者に男を紹介されても、仕事を見つけるのも、「これじゃない」ものばかりがあらわれる(じっさい、それはひどい選択肢なのだが…)。そして気がつくと、最初に「ないない」とシカトしていた歯医者の受け付けの仕事をしている。
そして、歯医者の仕事をしながら、ジャスミンは本来の自分が「やるべき」(と思い込んでいる)仕事のために学校に通う…のだが…この学校のくだりは、本当に秀逸なので映画を観るとよいと思う。
秀逸、というか、その普遍性がすばらしい。
なんと愚かな…。そしてこの愚かさを背負っていない人が、いるのか…。
(愚かじゃない人はわざわざ映画館で金を払って映画なんて観たりしないから、この反語も通ることだろう)
b.
この映画に、とくに救いはない。
歯医者の受け付けの仕事を一生懸命やっているうちに、自分が忘れていた価値観に気づいて、人にやさしくなりました、だから、置かれた場所で咲きなさい…といった慰めはない。
逆に、映画は、愚かなジャスミンを必要以上に笑うこともしない(ここ重要)。登場人物は、程度の差こそあれ、皆てきとうに愚かで、愚かさの中におかしな一瞬一瞬を持っている。
だって、現実はそうだから。なーにが「置かれた場所で咲きなさい」だよ。現実は「人間は置かれた場所で咲くこともあるし、そうじゃないこともある」だよ。そしてそれが決まるのは「たまたま」だよ。「正しい選択をした」と今思っていても、それが10年後、その通りに評価される可能性はない。誰かが客観的に見たとしても、その選択が正しい保証なんてどこにもない。
c.
映画は、「どうして、こうなったんだろう…?」という余韻とともに終わる。確かに、ジャスミンは鼻持ちならない愚かな女だし、いやそれはないだろう、という選択をしてばかりだ。
でも、自分がそのシチュエーションに置かれたら、はたして「正しい」選択ができるだろうか?
あ、「正しい選択をしてるか」、という問い方は、「正しい自信はないけど、正しいつもりでやってますよ!」とかいう詭弁を生むから、「恥ずかしくない選択をしていると思っている」でもいい。そのように、思っているだろうか?
(ここまで読んで「正しい選択などできないなんて偽悪的だ」「倫理というものを否定している」という類いの、安い反感を抱いた人は、以下書いていることも理解できないかも知れないので、とっとと読むのをやめたほうがいいかも知れません。クラスのお友達とどうぞ仲良く。)
…そりゃ、私だって「恥ずかしくない選択をしてる」つもりだ。
「自分恥ずかしくない選択をしている」と思っている人、この映画のジャスミンこそが、まさしくそうである。だから、ジャスミンのいくらかは、もちろん、私である。だから、この映画が胸をうつ。
恥ずかしくても笑われても、そのときの自分の視野で選択するしかない。ジャスミンはそれをして、こうなった。ジャスミンを「自業自得」と評して、ツッコむだけで終わることができるのなら、繰り返し言うけど、この映画はあなたにとって、いらないのだ。
わたしという存在を、別の次元から、時間を自由にまたいで一篇の映画として見ることができるようになっていて、それを観ている観客が、いるとしよう。わたしが「ブルー・ジャスミン」を観てニヤニヤつっこんだように、わたしの観客はわたしの行動に、ひとつひとつツッコミをいれていくことだろう。
- 「なんで今コーヒーに砂糖入れたの? 太るよね?」
- 「そもそもコーヒーが身体によくないよね?」
- 「その本読むより人に聞いてまわったほうがいいよね?」
- 「なんで、今こういう仕事やってるの?」
- 「地方なんて終わってるんだから、東京に住むべきだよね?」
- 「あー、その手の人の世話焼くの、時間の無駄だよね?」
- 「そもそもこいつ15年前にさぁ(時間が飛んで、私の15年前のシーンが再生される)…」
わたしはつねに、観客から、無数の正しさによってツッコまれ続けることだろう。
久しぶりに日記に書いたけど、ツイッターその他を、暫く、やめてみることにしたのだった。(ツイッターをやめたから日記に書き続けるという気持ちがあるわけでも、ないけど)
やめる理由は、いろいろと積み重なったものもあるので一言では書けないが…ツイッターをやめてみることにした理由の一つは、ここまで書いた通りだ。夏だし、愚か者にツッコミたい人にはうってつけの季節だ。