動機の在と不在

子供のころから自分のことを「努力が嫌い」な人間なのだと考えていて、たとえば高校の文化祭の前日、みんなが必死な顔してバタバタバタと校舎内を走り回っているのを、なんでこの人たちはこんなになるんだろう、こうなるんならもっと前から考えておけばいいのに、それともこの人たちはこういうのが好きなだけなのか、と思っていた。でもそれは思うだけでやはり「何かなした」人というのはそういうバタバタした人の方なのだった。

走り回って、キーワードを削除したり規約を考えたりしてる人を見ると、尊敬の念とともに自分の中に揶揄ともなんともつかない気持ちがこみ上げてくる。それは勿論自分のだらしなさ、何もしなさに起因しているのだった。しかし、やるときは自分の動機と理念に結びついていなければならない、けっしてバタバタすること、それそのものが目的になってはいけない、そう思っていた。そうして動機を待った。

しかしそれは間違いで、たんじゅんに自分の中で「何かする」→「達成する」→「うれしい」という回路ができていないからぼくはバタバタすることのよろこびがわからないのであって、ひとは普通バタバタしてもそこに動機を見いだしているのだと思った。よろこびという生理に忠実になるから、言語化されていなくても、ひとは目の前の小さな理念を信じることもできるのだと思った。だから、自分は努力が嫌いというか、努力というものがわかってない、が正解だと思った。

だからバタバタを前に普通議論される「そもそも」論と、ぼくが遠目にバタバタする人たちを眺めながら思う「そもそも」とは、その「そもそも」の質が違っているのだと思った。これまで他人の「そもそも」に乗っかって何か自分のためになることを得ても、その「そもそも」は結局自分が寝て過ごすだけの方便にしかならないのだった。

ので日記も「強まり日記」みたいなものにしようと思った。

自作ゲーム

id:soba8さんとこより

http://www.id.takushoku-u.ac.jp/sotuken/Shikaku_Zokei/98659/

…ゲーマーの方なんでしょうか…。
元々趣味でやってなくて、学問的な道筋を追って行く中で、こういうのが出来たのならそれはすごいことです。言語化できる、ゲームデザインのロジックがあるということですので。ゲームメーカーはコンタクトするべきですよ! 製品が売れる如何よりも、開発の方法論が言葉になってるというところに、価値があると思います。

…でも実際はゲーム好きな人が卒論でもやっちゃえーって感じで作ったっぽい。「ファミリーコンピューター」「電源ゲーム」とか書いてあるし…。学籍番号しかわかんないので不明なんだけど、これ、修論だったらちょっと気になる。