道頓堀川に飛び込んだ人に死者が出たとのニュース。

テレビでは一斉に犯人探しをしているが、「まさか本当にあれで人が死ぬなんて思ってなかったしな」というのがその本意だろう。なぜか。誰も川の大腸菌で死ぬなんて本気で思っていたわけではなく、大腸菌がいるから川に飛び込むのやめましょう、というのは、「嬉しいからって川に飛び込むのはみっともない」と言いたいけど言えないことの言い換えだったから。

無くなった人の死因が水死だったので、大腸菌の話をしていたのをうやむやのままにして、「とうとう犠牲者が」などと言っているのだと思う。

じゃぁ最初から、大腸菌とか言わずに「危ないしみっともない」と言えよ、と思う。

だいたい、糞便性大腸菌が遊泳禁止になる基準の5倍って、だから何なのだ。5倍だから安全なのか危険なのか分かりやしないし、一つのソースをもとに「だから危険」という奴がいたら「だから安全」という奴がいるに決まってるのだった。

…またゲーム脳と同じ話ですか>おれ

もし、橋の上で何度も飛び込みを繰り返してるバカがいたら、ひょっとしたら自分だって、「そんなに飛び込みたいのなら飛び込ませてやるわい、どうせ、人の顰蹙など気にしないお前らに、何を言っても馬耳東風なのだから、俺が押しても風が吹いたのとおんなじじゃ、ほら」と、欄干の上に立ってる奴の背中を押したり、している、かもしれない。

だってそうでしょう。「みっともない」という合意がなりたっていないのだから、あとはそいつらの勝手でしかない。しかし、そのみっともなさを見せられるわたしの不快、あるいは不安に関しては、どう処理すればいいのか。これは不公平であると考える人がいても、あるいは、その不公平さは、「飛び込みたいなら落としてやるよ」という溜飲の下げ方でイーブンになると、考える人がいても、不思議ではない。

…実際に押した人がそういう気持ちだったのかはよく知らないけど…酔っぱらいかも、とか書いてる所もあるし…

でもぼくは、この話を「人に迷惑さえかけなければ、みっともないなんていう公共性なんて関係ないし、対話なんてしなくていい」という発想の延長にある事件と捉えたい。

もし、事故なんかではなく、故意に押したのだったら、押した側の人間の心理を、精緻に調べる必要があると思う。

くりかえしますが、興奮したからって川に飛び込むのはみっともないです。

(後記:「であるべき」のような言い方を「自分は思う」に直した)