いかりや長介さんが亡くなったとのことです。長さんと言えば「もしものコーナー」の「もしも威勢の良すぎる風呂屋があったら」で、毎回仲本工事に乱暴に服を脱がされ水をかけられ、肌色の襦袢ひとつになって「だめだこりゃ」で締めるのですが、今考えてみると、毎回などと言ってますがじつはあれは録画だったのかも知れず、ときどき思い出したように放送されるドリフ大爆笑では、オープニングの若さと、とってつけたような今日のテーマを前説でカメラにむかって喋る長さんのボソボソ喋りがどんどん乖離していっていて、近年はもうドリフ大爆笑に長さんが出ているだけで痛々しかった。ぼくの中では長さんといえばあのオープニングの、空色のスーツを着て胸を張ったいかがわしい人だった。

それでも子供時代は特別な存在だったことに代わりはなく、ぼくはドリフ大爆笑が(よく見ていたはずなのに全員集合はあんまり覚えてない、歌謡曲とかドリフ以外のタレントの人に興味がなかったのだと思う)始まる火曜日の夜には、両親の結婚記念の置き時計の針を20分進めていた。これはなぜかというと「もしも」のコーナーが始まるときには、ほとんどもう番組が終盤で、そのたびぼくは切ない気持ちになるのであり、それを少しでも軽減するために、20分進んだ時計をちらちら見ながら、ああだめだもうドリフ終わる、違った、あと20分あるんだったああよかった、という、時間を20分得した気分になりたがるのだった。

長さんがどうだったかというより、いかにして長さんが「長さん」という縛りのなかで衰えていったか、ということ(ニホンのモーガン・フリーマン的な扱いをされそうになっていたのが全然意味わからない)、いかにして自分のなかでドリフがつまんなくなっていったのかということ、そういうことを覚えていようと思った。

つうわけで「近年は味のある演技を見せていましたねー」などという軽部アナの心のこもっていないコメントがむかつく、というか、むしろあんたらがあの人をそのような「味のある演技」の人にしたかったのだろう、と思うので、月曜はめざましテレビは見ないようにする。

なんだかんだ言ってこういろいろと書いてしまうというのは、ぼくは混乱しているのかもしれない。文字にして書いてみる「いかりや長介が死んだ」。たしかによくわからない。