「いのちのはてなダイアリー」について

クラブの要件

以前も書きましたが、「はてなダイアリークラブ」というのは、

  • 日記記述者が
  • 自らキーワード捕捉されることを了承して
  • 語句的にも文脈的にもミスヒットすることのない一意の言葉をキーワードとして日記に書く

ものだと理解しています。
「記述者が知らないうちに自動的に捕捉される」ものを「クラブ」として扱うのは問題があると考えます。現在「死にたい」などの言葉がクラブに属するキーワードの一つとして登録されています。そういう一般語は「クラブ」としての要件を満たしていないと思いますし、「死にたい」が「いのちの〜」に従属する言葉かどうかは、普通に日記を書いている人にはどうでもいいことです。従属させるのであれば、それなりに識別子をつけて、普通にその言葉を書いてしまわないような配慮が必要でしょう。

キーワードを作成された方の日記からは、普通に書いたことばが捕捉されてつながることが重要なのだという意図を感じますが、それには反対。そもそも、その「重要」は、「いのち」にかかわることだからという理由をもって、万人にとっての「重要」なものであるかのような補強が行われているように見えます。これは筋を違えた議論です。

「つながる」自由と同様に「つながらない」自由を適度に行使させてほしいという人もいるでしょう。*1

以上配慮いただければ幸いです>id:Kanemoriさん,id:hinopさん

以下、感想です。

見知らぬ人とつながりたいわけではない

個人的には、たとえば僕が「死にたい」と思って日記にそう書いたからといって、そのキーワードを辿って来た人に、何かのクラブ活動のノリで「がんばれ」「しぬな」「話は聞くよ」と言われるのは、いやだなと思います。

全く知らない人に、そんなクリティカルな問題に言及されるいわれはないです。もちろん、親切な人のはげますような発言に感謝することもあるとは思いますが、それは、その人の資質に依存することであって、これを捕捉キーワードにすることとは違う次元の問題です。縁もゆかりもない「知らない人」と、そういうところでつながりたいとは、あんまり思わないのじゃないですか。

「つながる」は至上の価値ではない

どうもこう、「つながる」ことが全部いい、閉鎖的なのはいかん、みたいな価値観がまかり通りそうで、それは嫌なのでもっと個人的な意見を書きます。

はてな」のよい点は、ただ「つながる」ことではなく、人と人のつながりを、強制してないところにあると思っています。そして僕はその曖昧なところに安心感を覚えるのだと思います。

僕にとって、近い人、やや近い人、遠い人、さまざまな人がいるのであって、それらの距離を無視して、なんでもかんでも「つながればいい」というのは、ある意味「不躾」であるように思える。

近い人から段々遠くの人と知り合って行くのが自然なのじゃないか。近くの人とは、なれ合ってもいいだろうし、アンテナに登録したりされたりしながら、言及しないまでも見てるくらいの人もいると思う。もっと遠くで光っているアイドルみたいな人もいるでしょう。

たとえばそういう、おそれ多いと自分が感じてる人や、見ず知らずの人のところに、いきなりコメント書いて「つながる」のって、みんながみんないいことなのか。そう思います。

人との出会いの可能性を拒否しているわけではありませんが、ひとついいことがあったからといって、全部いいことだとは限らない。

「トラバ」とか「コメント」とかいうもので、突然世界の果てから果てまで人と人とがつながり、「フラット」で「オープン」に議論できるというような「ブログ」の描いている物語は、一部の<しっかりした人>に許されたことだなのだと思う。それができないから僕はこうやって…と、これは、いつものブログの文句ですが…

*1:適度に、というのが言い方難しいけど、「つながりたくないなら?Dやめてさるさる日記にすれば?」みたいなのは極論だと思うし