ルールのコピーと愛にかんするなんかかんか
半径1クリック界隈で「天空盤」というゲームが話題になっていて、
これ、私たちが知っているドイツのゲーム(ガイスター)とそっくりおなじシステムなのだった。どういう経緯でこのゲームが売られているのかはよく知らない。
さて自分の感情を含めて、それっぽい反応を考えてみる。
- なんだこれ丸パクリじゃないか
- ルールは著作物として保護されてないから仕方ないのかな
- いやいや事実関係はわからないから早まって書くのはよくない
- 事実関係がどうあれ、元ゲームの名前を伏せるのはなぜ?
- 法的にシロでも、許可が取られていても、いい気分はしないな
- 第一高いだろ。ガイスター3000円くらいで買えるのに
云々。
私はツタヤでCDを借りるような人間なので、作者への愛があるなしという話になるとすみっこに縮こまらざるを得ない。
ツタヤでビートルズ借りたらビートルズ好きになっちゃいけない? 好きならその分金払え? そうかもしれないが、そうでないかも知れない。
正直、愛とか手前の塩梅でどうとでも言えるようなものを持ち出してなんか言うのは最後にしたいな、という気はする。
一般論 (1)
一般論として、パクリのゲームが出されたとき(天空盤がそれに該当するかはおいといて)、自分が何に対してどう思うか、つらつら書く。
パクリのゲームを腹立たしいとは思うし、買うかと聞かれれば、それは買いたくないだろう。
しかし、自分の「買いたくない」気分の大半は「だってもう持ってるし」や、「だってガイスターなんだろ? 知ってるよ」という動機が占めているような気もする。
必ずしも「パクリだから買わない」という理由には集束しない。
この理屈は変だろうか?
たとえば、入手がめちゃくちゃ困難な海外の絶版ゲームが、日本で勝手に名前を変えて売られていたら、という事態を想像する。オークションで1万円前後の値がつく、同じ作者の「イモムシイモムシ」が、「天空虫」とかなんとかいう名前で…。そう考えると、ちょっと買いたくなっている自分がいる。
入手困難なものの丸パクリと、入手可能なものの丸パクリに対して、自分の中で「許せる」度合いが違うのだとしたら、その可変な部分は、丸パクリであるということに対しての立腹ではないのだ、ということになる。
一般論 (2)
ドイツのボードゲーム文化、とか、作者への愛、とかは、私はよく知らん。
なので、文化とか愛とかを盾に、こういうことに関してなんか言ってるのを見ると「へー、詳しいんだね」と思う。
私はドイツに行ったこともないし、作者がどんな人かよく知らない。それを自分の体感として、あまりリアルに感じることはできない。ましてや、「文化」となると…基本的に私たちは買って遊んでるだけだし…。
まぁ、おまえには愛がない、というのはいつでも言えるけど、それは「愛がない」と非難した側が「愛」とかいう計測不能な根拠で人を裁く権利を持つことじゃないかと思う。だから、あまりそういう日本語では考えないようにしている。
あとは何か言えるだろうか…?
あぁ、そうだ。
もしも、盗作を「仕方がない」ものとして、倫理的に許容してしまうと、他に創作をやって販売したりしているひとたち、あるいは、自分たちが遊ぶときにルールを改変したりする、すべての創造的行動に、一定量平たく泥を塗ってしまう、ということは言える。
殺人を犯した人がのうのうと生きている世の中では公平性は保たれないだろう、という理屈に似たものだ。文化とか愛は嘘くさいと思う私も、この理屈には、与する。
ガイスターについて
それはそれとして、ガイスターはわかりやすくて奥深いゲームなので、おすすめです。
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- お互い青4赤4の駒を持って交互に動かす。自分の赤青の駒配置は秘密。
- 相手の青を4つ取ると勝ち
- 自分の赤を4つ取らせると勝ち
- 自分の青を敵陣のゴールから出すと勝ち
なんと4行でルールの説明ができてしまった(こうやって説明が書けるのも、ルールそのものが著作権で保護されていないおかげです)。
簡単なルールだけど、うまい人はうまい。気がつくと「詰み」の状態が敷かれていることとかよくある。