「ミスト」

で想像していた「ミスト」を観てきた。

ラスト5分までが鉄板の4ブラボー。そののち、4.5ブラボー。

「ショーシャンク」と同様、小説で読んだキングをそのまま再生してるような丁寧なつくりだと思ったけど、丁寧にたたまれていると思った洗濯物はすべて裏返しだった。そんな感じ。

a.(ネタバレ)

原作と違うラストがよい。
世界がこんなに理不尽なのに、お前たち神の名を呼んだりしてる場合じゃないだろ、愚か者め。人間ってこわいですね弱いですね。そういう調子で展開する。
しかし、映画の中のすべてのそういった業が、最後に、突然自分の中に還ってきてしまう。自分の生を全うしようと、主人公が選んできたことが、裏返って、主人公といっしょに何かを断罪してきた観客の心も一緒に裏返してしまう。
あぁそうだった、あの霧は立ち向かうべき困難なんかじゃなくて、あの霧がわたしだったのだ。
口車に乗って神を信じてしまった人が正しかったのか、わたしが正しかったのか。そんなことはもはや問題ではない。はりぼての神を信じて生き延びた人を、わたしは笑うこともうらやむこともない。とにかく、彼も生きたし、わたしも生きてしまった。それだけだ。
ただ、きっとこれからは、口を開けるたび、わたしのなかから、節くれだった足を持つ大きな羽虫が飛び出すのだ。

b.

こういう見方で「おれはわかってるぜ」的アピールをすると嫌われるので、基本的にこの映画は一人で見た方がいいでしょう。

あるいは、「あと5分車の中で待ってたらよかったのにねぇ」「***が生き残ったってどういうことよ」みたいな感想を、連れの人が抱いたとき、なんだよわかってねぇなぁ、とか言ってしまわない人間力が試される。

いずれにしてもおれがこうやってぐだぐだ書いてしまうということは、鰯の頭をどれだけ深読みできるかという文系的な映画なのかも知れない。

c.

こういうマイナスの面を見せる人間ドラマを、ブログ脳を起動した状態で見ると、「ははは、コメント欄に信者が涌いてる」とか「なんか徒党を組んでどっち派とか作ったことにされちゃってる!」とか「影響力がでかくなってきたら殺害予告」とか「はてなやめました」とかいろいろと置換できるのだけど、それはいつでもできるのでわきにおいとく。

この映画の中のミセス・カーモディ(何かの宗教の狂信者でありスーパーマーケット教の教祖)をブログ脳フィルタを通して見ると、コードを書かないで扇動だけする「文系」にかなり近い存在ではないかという気がする。ミセス・カーモディにも「文系」程度には生きる意味がある。vice versa

d.

まぁ…どれだけ書いても「人間って悲しいなと思いました」的な言い方には勝てないな。そういうこと言う人は、何見せてもそうなんだろうし、投了です。