キャタピラー
これはすばらしい反戦映画。
どういう話か
日中戦争開戦後まもなく出征していった夫が、四肢をもがれて顔の半面がただれ聾唖になった状態で帰ってくる。周囲は「軍神」と褒め称え礼を尽くすが、妻の胸中は複雑。戦時下の困窮した生活の中、妻は夫の介護に疲れていく。夫もまた、戦地での自分の行動の記憶に苛まれていた。
気になった点をメモ
- 現代的な感覚で見て、まともな登場人物はクマさんだけ。あとの全員がきちがい。「建前では戦争賛美してるけど私だってほんとうはこんなことしたくないのよ」という言い訳をする人物はいない。クマさんはきちがいの中で自ら狂った人を演じていたと見ることもできる。
- 主人公の寺島しのぶも、最初は「世間体を気にして耐えている」ふうなのだが、途中から、見ていて感情がよく読み取れなくなっていく。
- 夫は口がきけないので、自分の体験(中国人の娘を強姦して殺した)を誰にも伝えることができない。明言されないが、彼の名誉の負傷は、実はその強姦に関係して起きたのかも知れない。(しかし口がきけないので真相はわからないまま)
どういう話と思いながら観ていたか(どう裏切られたか)
tbd.
反省するだけ、知るだけの映画や番組に意味なんてあるのか(私の感想)
小学生のころ「平和教育」を受けた。人が死んだり溶けたりする映像を見せられて「かわいそうだと思いました。こういうことがあってはいけないと思います」と感想を書くことになっているやつだ。「平和教育」に特に個人の意見は求められない。「あってはいけないと思います」と書くことになっている。
すくなくとも、小学生だった私は、普段の作文と同じように「そつなくそれっぽいことを書く」ことに腐心していたと記憶する。映像は記憶に残ったが、結論はとくになし。しかし「なし」では済まされないので、「あってはいけないと思います」と書くわけだ。
成長しても、その傾向は変わらなかった。悲惨で泣けるドラマを見せられても、その結論として「こんな悲劇を起こす戦争はあってはいけないと思います」と、あからさまに誘導する意図が見えると「で? それは小学生の作文とどう違うんだ」と思っていた。
これは、たんに私が莫迦で卑怯な人間だから、というだけでなく、投げかける問いの側にも、問題があったのだ、と思う。今なら。
たとえば「かわいそうな夫婦」が出てきて「戦争の価値観に毒された人」や「戦争は無益だとわかっているが、本心を表せない人」などとのやりとりを繰り返しているうちに、家が焼けたり人が死んだりして、主人公夫婦が愛をたしかめあったり哀しい目にあったりする…という映画やドラマは多い。戦争さえなければこの人達ももっと別の人生を送ることができたでしょう……という対比で、(現代人でも感情移入しやすげな)個人のドラマの上に「戦争」をマップするわけだ。
「個人の悲惨を通じて戦争の悲惨がわかりました」とわかった気にさせることは、一つの方法ではあるかも知れないが、はたして、ベストな問いかけ方といえるのだろうか。
「キャタピラー」において、戦争とはまったく意味不明なものだ。登場人物は全員気が狂っているし、夫と妻の間でも、戦争の体験そのものが異なり、語り合うことができない。日々妻が夫に飯を食わせシモの世話をし、セックスをしていると、1945年になり、沖縄戦がはじまり、原爆が落ち、戦争が終わる。
なんなのだ。
戦争に参加したから手足がなくなりました、まぁ可哀相、戦争さえなければね、という因果論は、この映画を支配していない。戦争という状況を呪っても受け入れても、ちょっとしたことで意味不明な事態が起きて、人は死んだり狂ったりするものなのだ。
映画の中に挿入される記録映像も、夫の回想の中でフラッシュバックする中国人殺しも、夫婦のドラマとのつながりはない。なぜ、そんなことがおきるのか、「わからない」。戦争という事態の下では、意味不明なことがいたるところで起きる、ということだけがわかる。
だから、もっと知りたくなる。
戦争を題材にした映画やドラマを観たなかで(積極的にはほとんど観たことないけど……)、今回おそらく初めて、私は義務のようなものを感じた。
「かわいそうだと思いました」「当時のことがちょっとわかりました」そんなのは嘘だろ。平和教育を受けた子供の感想文は「戦争意味不明すぎ。なんなん?」であるべきなのだ。
88点。