日記(レビューについて)

土曜日は、久しぶりに帰熊したKさんを囲む会。別れた後も日本酒のお店に行き、痛飲。

「身近にボードゲームショップの店主がいる(予定)」ということを意識すると、私が時々書いてきたような「こうならいいのに」という机上の理屈が、実現可能性を伴って、全く別の角度から見えるようになるのがわかった。これは面白い体験だった。

「また一つお店ができましたね、がんばってください」と言うのは、簡単だ。ほとんど何も考えずに言える。「またショップが増えてどーすんの(食い合いじゃないの)」という言葉を飲み込みつつ、「がんばってね」と言うわけだ。

しかし、ショップが身近にあるというのは、私にとってはそういうことではない。買って遊ぶことに飽きてしまっている人間にとっては、人に面白さを伝えて共有することだけが、おもな楽しみ方なのだし、どこで買おうが送料が1000円だろうが500円だろうが、私には関係ない。身近に実際に買えるモノがあり、情報のリソースがある、ということをつかって、自分に何ができるか、周りにどんなよい影響を与えることができるかを、考えるべきなのだ。

言い方が微妙だが、自分にできるのは「評価レビュー」を書くことでは、ないのだった(そうすることに効果がないわけではないが、すごく面白いものに当たって、かつ、面白い文章が書けないと、効果は生まれない)。

「評価レビュー」を書いたって、そんなもの読むのは買うこと前提の内輪の人間だけだし、もとより私は人の書いたものをなんでもかんでも「情報」云う奴が好かんのだ。

いや、情報ではあるかも知れないが、あるものを買うに値するかどうかという情報を提供しているつもりは、ないのだ。以前、レビューサイトにいくらか評価を書いてみたことがあるが、なんだか空しくなって止めてしまった。

私は私の関心のありようや、他人の関心のありようには関心があるから、そのことについては書きたいが、他人様の購入の参考になるかどうかということを主眼にして書きたくはなかったのだと思う。

そんなに利己的な奴だったのか私は。しかし、ギョーカイ全体のためにレビューを書くのであれば、見た人が買う気持ちになればいいのだから、すべて10点をつければ、いいってことにならないか。

たとえば、おもしろい映画評というのは、その評を見聞きして、その評が対象にしている映画だけを見に行きたくなるようなものでは、ないんじゃないのか? そういうスタイルが商売の人も、いるんだろうけど。

よい影響を与える語りとは、その語りにちりばめられた情報のノードから、網の目を辿るように、どこかに行きたくなるものであるべきなのじゃないか、と思うのだった。