ノルウェイの森
今年2本目。
観る前
本を読まなくなってずいぶん経つが、私の年代にとって村上春樹は「ノリで読めるなんか意味深なことが書いてある作家」として重宝した作家ではないかと思う。
ハードカバーが講談社文庫に落ちるのを待って、買って読んでいた。そのときの「よくわからない」印象もあって、映画として観るのにも今更感がある。
映写室は狭く、ダッフルコートのカップルなどが入ってくる。よりによってダッフルコート…! そうだここではおれ以外の客が全員ダッフルコートを着ているのだ、と、脳内で変換した。「村上春樹的な何か」め…
感想
…と、ひねた態度で半笑いで(実際、序盤の芝居は、歩くスピードなんかちょっと可笑しい)見始めたが、「ここで指を映すのか、なるほど」「これは学生運動への違和感を表していて…」などと思って観ているうちに、いつの間にか没入していた。音響がいいのだと思う。
ワタナベが会話するところになると、私の脳内ではウィンドウがポップして、台詞の選択肢が表示される。
緑「ねぇ、今私が何考えていると思う?」
>1) さぁ…わからないな
2) えっ、またその話?
3)(黙っている)
私が考える答えは、ことごとく外れ(というか、だいたい、ワタナベ君は無意味な受け答えや切り返しをしないし、そんなくだらない自意識を持っていないから、とても丁寧にしゃべる)。そりゃワタナベみたくもてないわけだ…。
…それくらいには、ワタナベと一体化して観ていた。京都のどこかの山の上の肌寒さを感じ、風の音を聞き、乳首にキスされて震えた。愛するということがわからないまま、心の半分を喪ってしまった女の子のことを、自分なら、どう思うか? そこから返ってきて、自分が何を待っていると、誰にどう言えばいいのか? …云々。
「今あなた、どこにいるの?」というラストは原作でも(それと舞城王太郎の小説でも)使われていて、そこだけは覚えていたが、映画の中でワタナベと感情を同期させて観ていると、本当に意味がある質問に聞こえる。
直子が死んで(あぁネタバレですすいませんね)、激しい波の打ち付ける場所(この世とあの世の境目)に行って、帰ってくる。アトラクション、というか、ライドみたいなものとして、観られる感受性があるうちに観るといいと思う。映画館を出た後、しばらくてくてく歩きたくなった私は、40もすぐそこなのに、まだこんなものを観てしょうもないものを発症するような子供らしい。でもそれでいいじゃないか。
何回か観たら変わると思うけど、いまのところ、89点。
(追記:コメントにも書いたけど、普通に見たら76点とかつける映画だと思うし、見る人が男性か女性かにも左右される。)
たぶん小説を読んだときは、文体に惑わされていたのだな。小説の前に映画を観られるのは幸福だと思う。
内容メモ
随時追記。
- 主役二人の(キャスティングも含めた)芝居が自然。
- 菊地凛子さんは「歳くいすぎ」ではなく、「エキセントリックな言動の年齢不詳の女」として適切な顔だったと思う。
- ワタナベの前をスタスタ歩いて立ち止まり、振り返るときの、もっさりした髪の感じとか、ストレートに可愛いのではなく「うわ…あんまり関わりたくない」と思わせる
- 集中力をコントロールする音響
- not 音楽(曲は正直、耳障りなだけというか……)
- ギターで弾き語り「Norwegian Wood」
- ここは弾いているレイコさんがすごく意地悪い感じがする(なんであんたはよりによってそんな冷え冷えとした数年前の曲を弾くかなぁ…という)んだけど、原作ではどう書かれていただろうか?
- 映画は「同時代に感じられるように」という配慮で作られたらしいので、曲がしらじらしく聞こえるというのは、私に関しては、映画の目論見が成功していると言える
- 1968年
- 「イーライと13番目の懺悔」
- 歩く
- 「私たちちょっとおかしいのよねーキャハー」と内向きに閉じてしまった女二人を見たときの男のなんとも言えない表情
- 私なら口に出して「知らんわ」と言うかも知れない。
- これは愛なのか?って思う。
- 『風の歌を聴け』の中で、主人公が靴を磨く習慣を持っている奴として描かれるじゃないですか。ワタナベが直子のもとに通うのも、靴磨きに近い感じがするんですよ。靴を磨いてよくすることで、世界がまだましだと信じたいというか。
- 卵を二つ茹でる
- 波の打ち寄せる洞穴
- まさに「インセプション」の辺土(リンボー)…