日記 (let it wiki'd)

evening

学校が休みなのでなにかと賑やかだ。

evening 2

ある状況をめぐって「安全厨」「危険厨」と罵りあい、「あのとき**と言った人は〜」「あのとき**に投票した人は〜」と言質をとりあう人々は減らないもんだ。なんなのだろう…。

たぶん、掲示板もブログもツイッターも、書いたものが流れて膨大なログの中に埋没していくという性質が、その言質とりごっこに拍車をかけている。「おまえ確かあのときこう言ったよな?」と、流れていく過去を拾ってきて指摘することは労力を要するし、その労力を払うことに価値がある(えらい)ように見えるから。まぁ、終わってる。流れていくものをリアルタイムにつまみあげて「まとめ」をつくるサービスがあるが、「コンテキストがつかめて便利」の域を出ない。これがキュレーションなのか…?

iPadのEchofonを起動したら、13日の朝のタイムラインが残っていた。こういうものも何かの資料として読めるのかな、と思って目を通してみたが、たいしたことは判らない。そりゃそうだ。現在というコンテキストで手一杯なのに、過去どうだったかという別のコンテキストの再生なんて学者やジャーナリストでもないのにできるわけないのだ。重要なのは「このときこんなことが起きていた」を知ることではなく「それでおれは何がわかったのか」だ。

ネットは半ばあきらめて手書きの帳面をつけるようにしはじめている。今はそれが正解なのだろう。だって仕組みがないんだもの…。(これは、ネットで勉強しようとして失敗するという、先日書いたことにも共通していると思うけど、「わからない」人が「わかろう」として普通にネットを使うには仕組みが足りてない)

「私」が修正と更新を重ねて少しずつ本質に近づけるような、継続的な更新のできる仕組みは、これまでwikiと呼ばれてきたが…そちらこそ個人によってwebに書かれるものの本懐ではないのだろうか。

自我などというくだらないものを盛り込みたくなる、日記というスタイルを卒業すべきなのだ。

evening 3

震災から2週間。農産物輸出(汚染こわい)、マネジメントを含んだ知識集約産業(管理能力なさすぎ)を中心に、日本の産業の今後の競争力を悲観する発言を見かける。あぁそうなんだろうな、と思う。それらはおおむね言葉による被害なのだから回復するためにも言葉しかないのだよなとも思う。