何かを選ぶことは何かを捨てること、根無し草、そして「ハイ・フィデリティ」

「SF系」かどうかも知れず「ミステリ系」かどうかも知れずぷらぷらと心にうつりゆく由なしごとを綴っているうちにいつの間にかボードゲーム日記になりつつある。100質にも書いたとおりぼくは自分の日記ページのアンテナの登録数が気になるのだが、日記の内容はわりとダイレクトに、被登録アンテナの傾向に反映される。ボードゲームばっかりやってると数週間で自分がボードゲーム系の人になってしまったかのように登録される。かのようにというか、客観的にはそうなのかも知れない。

でも、ぼくたちは、客観的にどうか、なに系と思われているか、そんなことはどうでもいい。本当に内的な必然性にしたがってそれをしたか、すべてはそこからであって、そうでなければならない、そのことをぼくは「ハイ・フィデリティ」から教わった。このことも100質に書いた。

「ハイ・フィデリティ」は、女の側から記述するならば、「煮え切らないオタク男が、本当に愛すべき人を見つけて収まるべきところに収まった」という、まったくもって腹立たしいラブストーリーなのである。

映画が終わっても物語は続く。いつか結婚した二人のもとを、カミさんの女友達が訪れる。テラスに並べた椅子に腰掛け、カミさんのつくった冷製スパゲッティをつつきながら「ホントにあなたたち二人のこと心配してたのよ」「どうなるかと思ったわ」などなど、如何に男の周囲で心配が渦巻いていたかを語るにちがいない。にこやかに聞いてはいるが、そこは女性原理の針のむしろ。 うっせ! ファック! おめぇらの思惑なんて関係ねぇっつの! バカ! ぼくはジョン・キューザック、ぼくの中のジョンが曖昧な笑いを浮かべて頷いているなか、ぼくはそう叫び出したくなる。

そしてレコード屋に電話する。電話に出た店番のジャック・ブラックはまるで店長気取り。そしてまるで神。全身これ神。

「ちょうどお前があのクソ忌々しいカミさん連中にうんざりして電話してくるころだろうと思ったんだ。一瞬ヴォリュームを上げるから、今おれがおまえのために何をかけていたか当ててみろ…」

こんな調子。オタク原理を注入され、ぼくはテラスにもどってくる。「なあに、ニコニコして、変なの」うっせバカ、愛してるよハニー。

きっとこのようにして外の原理に腹を立てながら、自分の中の世界と折り合いをつけながらぼくたちは生きている。くだらないことは判っている。でもぼくたちは信じている。「ハイ・フィデリティ」の神話は、ひとつの恋の結末と始まりが、女の思惑として成立してしまう直前に、オタク原理が猛スピードで後ろからチャージをかけて勝手にゴールテープを切ってしまうところだ。この映画は、オタク同士で結婚しなくても、ひょっとしたら内と外の原理は仲良く共存できるかも知れないし、そうあってほしいという祈りのようなものだと思う。ぼくも祈りながら穴を掘ろうと思う。