カネを賭けてもいないのに

ちょっと思いつきメモ。

ゲームは「プライド」を賭けるから白熱するのだ、という話には一部頷けるのですが、ぼくは、それだけではあの魅力を説明し尽くすことはできないと思っています。

たとえば今「ショッテントッテン」で屈辱的な記録を更新しつづけながら、ぼくは懲りずにいろんな人にこのゲームを薦めて廻っているわけですが、そこでは、勝ちたい、負けたくないという要素は二の次なのですね。(いや、負け惜しみではない)

なんと言うのか、「この人と、一緒の思考空間に浸りたい」欲のようなものが、あると思うのです。

なぜ、こんなことを考えたのかというと、会社でときどき遊ぶ相手と、ぼくが自分から「ショッテントッテン」を薦める相手の範囲が、微妙にずれているからです。いくら勝ち負けを競って楽しい人でも、あまり手を選ばなかったり、一つの戦略で最初から最後まで通すような人には、「ショッテントッテン」を薦めていない。

そのずれた所に、勝ち負けを競ったりする部分とは別の楽しさがあるのではないかと。

もっと言えば、言葉を交わさなくても、相手の思考と自分の思考が同じところをさまよい、そしてそれがピッタリはまったり、脆くも運によって崩れたりしてしまう瞬間、そこに、大きなカタルシスが生まれるのではないかと。

勝ち負けによる何かの価値のやりとりだけを考えると、結局、頭のいい奴、沢山考えた奴が勝ったほうがフェアなわけで、それは別に、囲碁将棋でもいいじゃん、ということに、なってしまう。「運の要素が絡んだゲーム」に白熱する理由が説明できないのではないか、と思うのです。

…ところで…桃源郷掲示板で見ましたが、「バトルライン」は完全に絶版なわけではなく、GMTで生産準備はしてるらしいですね…。

アレクサンドロス大王東方遠征紀」を読んで、9月10月を待ちます。

後記:掲示板のその書き込みの日付が2002年7月だということに、後で気付きました。つまり待っても無駄です。ガックシ。