メトロイドプライム

ニンテンドーイズムに溢れる快作。FPS*1という洋ゲーの骨組みの上に、よくここまでニンテンドーの皮を被せたと思う。ゼルダの骨組みだけ真似して、アバウトな洋ゲーになってしまった、スターフォックスアドベンチャーはえらい違い。

FPSは、自分を客観的に見ることができないので、ともすると息が詰まるのだけど、モーフボールで客観視点に切り替わるフィーチャーがあって、そこがうまいぐあいに息抜きになっている。

プレイヤーの記憶バッファのいじり方も、ニンテンドーとしか呼びようのないさじ加減。お約束ながら、新しい能力を取ったときに、新しく行ける場所が増えて、今まで意味が分からなかったものが意味を持つようになる。この、脳内の記憶の優先順位の動かし方の具合がニンテンドー

このことについてもう少し書いてみる。記憶の優先順位とはなんだろうか。たとえばメトロイドにおいては、ゲーム中に少しずつ明らかになっていくマップの中で:

  • 今すぐ行ってなにかできそうなところ
  • たぶんアレが手にはいったら行けそうなところ
  • 意味がよくわからないところ

つねに、この3つを、平均的に供給しつづけ、プレイヤーに、次への期待を持たせつづける技術、とでも言えばいいだろうか。

このバランスが悪いと「何やっていいかわからない」だったり「おつかい」だったりに、なってしまう。

唐突に、スティーブンキングの『デスペレーション』を読んだときのことを思い出した。

序盤、何かが起こりそうな雰囲気をみなぎらせてストーリーは始まるが、何が大事なのかは、まだよくわからない。悪魔や災厄のぼんやりしたイメージの中に、時折、おや、と思うような描写が現れ、これが興味の対象になる。実は、この「おや」は、結果的にストーリーに関わりがなくても構わない。しかしそれが外れだと判明したときには、別のフックが現れていて、読者にページをめくらせている。『デスペレーション』では、わりとあからさまに、そういう仕掛けが施されているように思えた。*2

ゲームといったって、シーケンシャルな時間の中でプレイしないわけにはいかないのだから、キングの小説と同じように、脳内のフックの数を管理するようなやりかたでデザインすることができるだろう。ぼくにとっては、それがニンテンドーのゲームであり、イコール、「売れる」ゲームの条件なのだが、ぼくの「売れる」と世の中の「売れる」はけっこう違うみたいだ。

テレビゲームがあまねくそういうやりかたでデザインをされる必要はないのだろう。たかだか、キングの小説が「売れる」のと同じくらいの意味しかないだろうから。でも、もの書きが、キングや宮部みゆきが「売れる」のを技術的に研究する価値があるくらいには、真似する価値はあるんじゃないか。

正直、こういうゲームにはほとほと飽きている。だから、こういうゲームの作り方が、広く言語化されて、それを下敷きにして別の面白さのゲームをみんな作ってくれないかなーと、思っているのだった。

*1:First Person Shooting. DOOM,Quakeのようなもの

*2:仕掛けがわかってしまうという意味では駄作なのかも知れない