wikiと日記
膨大なリファレンスとリンク情報を持つ、とか、言われている『薔薇の名前』の、いくぶんでもおいしいところを読もうと、単純な発想ながら、ハイパーテキスト的な書物にはハイパーテキストだぜとばかり、読書メモのためにwikiスペースを借りてみた。
うーん、これは、本に限らず、有効だ。もっとみんな、ボコボコwikiディレクトリを作っていい。
なぜもっと早く、これをやらなかったのだろう。
ペンを片手に本を読む。読書メモが積み上がっていく。しかし実は、一つ一つのメモは、それほど重要なのではなく、本と私が反応しておきた、火花のようなものなのだ。この小さな、関係のゆるい、一つ一つの気づきを、どうやって言葉にして残せばよいのか。火花どうしを連結し、意味のある思考にするには、直線的なノートをとってはいけない。
ぐだぐだやらずに意味のある文章を積み上げればよい、と、言う人があるかもしれないが、今の自分が生み出した意味や文章を積み上げるのは、無学文盲なぼくには、ほとんど意味がないと思えるのであって、あまりにもあたまわるい、という、そのそもそもを、ぼくはどうにかしたいのだ。
まったく同じことを考えて、ぼくは会社のメモ書きを、カード式に変えたのだった。これを、電子的にやるには、web日記よりも、ノードの接続が自由な、wikiがふさわしい。
そこまで考えて気づく。…しかし、わざわざ日記とwikiを区別するのはいかにも勿体ない。日常のリニアな記述の中に、火花のようなひらめきが起きたとき、そこから派生するように発想の枝を広げることはできないか?
ぼくにとっての、日記のキーワードというのは、本質的にそういうものだったのだなと、いまさらながら気が付いた。はてなのキーワードが、そういうものかは、わからないし*1、このあまりに個人的な希望を出そうとは思わない。実装すると、各ユーザがポイントで<自分の>キーワードスペースを買えるようにするなどの方向に、閉じていってしまうので…
しかしながら、「公共的な辞書機能」「お仲間捕捉」という次元に、日記のキーワードを貶めてしまうのは、勿体ないと思う。それぞれの、ユーザの、日常の記述の中のひらめきから拡がる、意味のつながりが、大事なのだ。
それが、共有されている、というところは、とてもロマンチックだ。だってそんなの、ありえねぇし。
おお、そう思ったら、突然、キーワード登録もしていいと思えてきたぞ。*2
あーまた、はてなの話になってしまった…。えーとあの…言いたいのは、完全なメモ帳としてwikiを使ってみたら、考え方変わりました…ということです。