動物化する2章

きのう「数に出るようなコミュニケーションをしていこうとか」書いたのは、自分自身への皮肉のつもりである。いかにもぼくは、誰かのアンテナに捕捉されること、だれかの日記をアンテナに捕捉することを、コミュニケーションのひとつのように思っている。もっと言うと、ネットの中での自己定義のひとつのように思っている*1。思っていながら自分でも居心地が悪いのだった。

じぶんの「おとなり日記」は、もちろん自分がアンテナに入れている日記の「おとなり日記」ではない、ということは、理解していて、これは処理可能な感情なのだけども、気になることが別にあって。



アマゾンの「おすすめ」機能と似ている気がする。つまり、そのページをアンテナでチェックしている人は、他にこんな ページも合わせ読んでいます、っていうこと

まさに、アマゾンと同じで、ぼくは今日、「おとなり」のリストや同村指数集計結果(労力に感謝)を見て、「あれ…このidの人は知らないなぁ…知らないうちにお隣だったんだなぁ…きっと傾向が合うのかもなぁ…」と、ふらふらと知らない人をアンテナに入れてしまった。しかしそれは、誰が判断したことでもない。

誰が判断したでもないことを、自分の定義として取り込んで、その由来については忘れてしまうこと、しかも、それをけっこうぼくたちはよろこんでいる、というのは、考えようによっては怖いことかも知れない。(なにがどう怖いのかは、これからもっと東浩紀の本を読みます。)

関心空間をハマってやってたときは、自分が「何が好き(あるいは嫌い)」であるかということを、キーワード編集という、自分の手作業で、エディットしていた。本棚を背負いながら社交場にいるようなものだ、と、誰かが喩えていたと思う。「おとなり」は、もう一歩進んで、その背中の本棚が、出入りの業者のおすすめで、どんどん増えていくという、感覚だろうか。そのおすすめは間違っていないし、便利なのだけど…。

*1:だから、意味わかんない日記もアンテナに入れたりするわけであり…