マッチスティック・メン(つづき)

■注意■映画を観ていないかたは、読むと映画の興趣が損なわれる可能性があります。


なぜこの映画を好ましく思うかというと、映画の中での「詐欺の嘘」が、そのまま「映画の嘘」と呼応しているからだ。

映画の中でおきる、楽しいこと怖ろしいこと醜悪なこと、それは映画というパッケージの中に収まって提示される嘘でしかない。映画が終わったらわれわれにはそれぞれの生活がある。

これはとても淋しい。淋しいから、わたしたちは、映画のストーリーに、嘘(ファンタジー)から還った後の救いを求める。つまり、映画に「ファンタジーの始まり→ファンタジーの終わり→現実→救い」というストーリーが多いのは、わたしたちが映画を観に行くとき、密かに持っている「映画が始まる→映画が終わる→現実→(何かいいことがあるはずだ)」という要請に答えているものなのだろう。

(書きながらえらい陳腐だと思いますので同じようなことを誰か言ってるのであれば、教えてください…)


■注意■以下、ほんとにネタバレ。

この映画の中で、ロイは出演者であると同時に、詐欺というファンタジーを観させられた観客でもある。そこが、この映画が、通常の映画から一ひねりしてあるところであり、ぼくが気に入ったところでもある。

終盤のあのシーンによって、息苦しさのただ中にいたロイは、一転、今まで自分がいた息苦しさというストーリーの観客になる。ファンタジーが収束するのではなく、突然、自分が観ていたのがファンタジーだったということに気がつくというやりかたで。

このとき、ロイの感じた虚脱感は、映画が終わったときの観客の虚脱感に似ているだろう。

そして現実が始まる。劇中「アーティスト」であったロイは、現実の世界では、しがないカーペット売りでしかない。そんなロイのもとに、あるとき、ファンタジーの世界のヒロインだった娘が現れるが、同じ顔をしていても、あの天使のような面影はどこにもない。嘘は終わってしまった。

しかし、というか、そしてというか…最後には、お約束通り、ロイが観ていた嘘の世界からのちょっとした救いが、待っている。あまりに都合がよいとしか思えないようなラストショット。それは、劇中人物の迎えるハッピーエンドの枠をはみ出している。なぜなら、ロイは、劇中人物であると同時に、嘘の観客でもあったからだ。

この「嘘」を見ている観客にも、ロイと同じように「嘘」からのお裾分けがありますように、という、ささやかな祈りの込められた、映画では、ないだろうか。

いやー、映画ってほんとに、いいものですね…と、金曜日に水野晴郎と一緒に…いや…水野センセイは横にいなくていいけど…観たい映画。

映画やライブを見に行ってもすぐ冷めたり飽きたりしてしまう(作り手のことが気になってしまう)人へのなぐさめのような映画だと、思います。