(続き)「趣味:文学鑑賞」は特殊なのか

http://d.hatena.ne.jp/yukatti/20040124#p3 をうけて。

わたしも自分で書きながら息切れしてきました…すいません…まぁ読んでもいない人間のほうが論負けするのは当たり前だし、わかってねぇなと言われるのは覚悟のうえなのですが、こういうのは勝ち負けではないので、一応書いときます…。

文学のヘビーユーザがライトユーザに伝える言葉を持ってない、それはヘビーユーザの怠慢ではないか、とまで、思ってるわけではないです(否定が続きますが)。きちんとしたガイドがあることは、わかるし、またふつうの人が、しろうとにわかるようにかみ砕いて説明をするのは、困難なことだとも思う。

しかし…趣味一般をみたとき、たしなんでいる程度の人であっても、自分が今まで経験したものを、自分なりに整理して、人から聞かれたときに、「今こういうことやってるんだ、これが面白いんだ」くらいのことは、言う用意はあるのではないか、と思うわけです。プロの言葉のように洗練されていたり、「正しい」必要はないにしても、趣味として自分の快を最大限にしようとやっている限り、無意識のうちに、カテゴライズや分類をやるものなのではないか。それが楽しいのではないのか。

わたしはけっこう、全体像を知らないくせに偉そうに分類しようとするので、よく誤解されますが…

それから、わたしは人の趣味の話を聞くのが好きですが、人の中で、そういう秩序立てが行われているのを美しいと思うからかも知れないです。

逆に言うと、「文学」を趣味にしたとき、その秩序立てはできるのか。これがよくわからない。「文学」が趣味のひとが、それをやってない、と責めているのではないです。どうやって「趣味」にしてるのだろうという疑問。

上にも書きましたが、ぼくは「趣味」というのは、「その快を享受するために、自分の認識を能動的に組み替えて組織化すること」だと思ってるのです。

趣味として「文学」を見たとき、そのへんのアイデンティティはあるのか。(疑問文ですが、これ、あるのか? 教えてよ、という意味ではないです…念のため…)

…というか…まぁ…そういうことが一般法則として言語化できないから…いろんな人が「文学入門」を書くのだし、個別に話を聞くしかないってことなんでしょうけど…いった端から自己完結してますが…

自分が積極的には「文学」を読めないのはこういう理由もあるのかもしれないです(第一には、面倒臭がりだということもあるのだけど)。趣味として対象化できる気がしない。自分の理論を作っても、それが人に通じなげ(えらそうなことが言えない)なのも、趣味としてイヤンです。

あー…なんか…今わかった…わたしはこれ、無理に(自分の定義による)「趣味」にしたがってるけど、これは「芸術鑑賞」なんだ…。いや、「趣味:文学鑑賞」というのもあるけど、それはわたしの「趣味」と言葉の意味が違うような。言葉の意味、というか、使う脳の部位が違うのかな。

答えを求めているわけではないので念のため…。