ゲームのオリジナリティについて

http://d.hatena.ne.jp/soba8/20040301#p1

伝染るんです。』の中に、ご隠居が「新しい遊びを考えついた」と、自分の犬の首に紐を結わえて歩かせる「犬ひも」という遊びを発明する話がある。4コマ目にはご近所の奥さんに、「あら、今日はワンちゃんのお散歩ですか?」と聞かれるわけだが。

どこからが自分のオリジナルで、どこまでが何かの模倣であるか、ということを判断することは、たいへん難しい。「イエスタディ」を作曲したときポール・マッカートニーは、あまりのできのよさに、周りの人にしきりに、この曲はどこかで聞いたことがないかと、訊ねてまわったそうだ。

つまり、創作か模倣か、それが意識されているかされていないかの境界も曖昧だということ、なのだと思う。

本人がゼロから発明したつもりでいても、似たゲームが偶然あったら、それはオリジナルではないのか。完全に知らなかったらOKか。でも、古くからあるゲーム性のエッセンスが、無意識のうちに他からとりこまれていたのかも知れない。仮に同じゲームが世界のどこかにあったとして、そのことを指摘する人が周りにいなかったら、オリジナルか。誰がオリジナルと認めればオリジナルなのか。本当に、「わからない」のだ。

だからわたしは「犬ひも」のご隠居を笑うことができない。

何が創作で何が模倣かというのを、後出しジャンケンのように、出たものに対してあれこれ言うのは、単なる足の引っ張り合いにすぎないのではないか。

(ラジオの番組などに「よく聞けば似てるこの二曲」というコーナーがあるが、あれがわたしは非常に腹立たしい。お前は何様だから、そんな特権的にパクりを指摘できるんだよ、と思う)

「これはアレのパクリだ」知ってる人がそう言うのは簡単だ。ならば、知っているものを要素にして、先に並べておいて、そこを踏まないようにしていれば、そのような「パクリ」は起きなかったかも知れない。

つまり、何が既知で何が未知なのかという情報が、足りない。

これは、ある学問が「**学」として成立していない状態に似ていると思う。あちこちで誰かが似たような研究をしている。皆それを、自分の学問領域の中ではオリジナルな発想だと思っている。しかし、その発想が、一つの学問の枝葉で終わりそうにない場合、それが本当にオリジナルなのか、他に似たことを考えている人はいないのか、自分の問題が何なのかが、わからない状態に陥ってしまう。

もし、それら、似たような領域を手探りしている人々を集めて、学会をつくることができれば、「いまこの領域はこういう問題意識で動いていて、こういうことが今わかっています」という情報を、共通の基盤とすることができる。定期的に学会誌を発行して、会員のところに届ければ、今の流れがわかるし、人のやっていることを後追いしたり、車輪の再発明をしたりしてしまう可能性は減らせるはずだ。

ゲーム制作に携わる人が学会を開くというのは、大げさだけど、知識の共有が、個人的口頭伝承や、ボランタリーベースのサイトによってまかなわれている現状は、制作者にとっては効率が悪いのではないかと思う。

たとえば:


親が出した色とおなじ色のカードを出さないといけなくて、出せない場合は他の色のカードを出してもいいゲーム。基本的に数が大きい人がそのラウンドのカードを総取りするが、切り札もある。最初はカードが潤沢にあるので、切り札が飛び出す可能性は低いけれど、ゲーム後半になると、どの色がなくなってきているか把握していないと、自分が取るつもりで出した色の札を、他の人が切り札で取っていってしまう可能性があるので、出た札を覚えておくことが重要だ

これを、「トリックテイキング」というゲームの1ジャンルとして認識し、すでにある似たゲームにどのようなものがあるのかを整理して、どこにオリジナリティが出せるのかを知っているということは、似たタイプのゲームを作る制作者にとって極めて重要なのだけど、この伝達が「ブリッジやったことありますか?」「ナポレオンやったことありますか?」という口頭伝承でしか行われないのであれば、いつなんどき、「トリックテイキング」を「発明」したと言い張る、かわいそうなご隠居みたいな人が出てこないとも限らない。

いったいわたしたちは、何を知っていて、何を知らないのか?

これをはっきりさせないまま、一人一人が自分の経験だけを元に「犬ひも」を作ってはほめられたり叩かれたりする、というのは、おかしいと思う次第。

このことは以前、ゲーム制作をしようとしている人と意見が対立した。

もちろん制作している人にとっては、知識を共有するということは、自分が作ろうとしているものからオリジナリティが奪われることだと、感じられるのだった。

しかし、一部のゲームを知悉した人が匠の技で作り上げた作品を、あれはパクりでこれはパクりでないなどと言いつつ、消費者がただ買って遊ぶだけの世界に、何の広がりがあるのだろうと、わたしは思う。

この二つは必ずしも矛盾しない。肝心なのは、すべてを共有する、ということではなく、既知のものと未知のものをどこかに皆が見られる状態で書き残すことだと、思うのだった。