畏敬ではなく畏怖

科学性より人間性重視、みたいなことを言っているわけではないので、そこだけ補足。

おかしなことを言われたときの畏怖、というのは、「オレの知らない理屈がある!」っていう驚き、であって、それは人間一般への尊敬じゃない。なんかおもしろいこと言ってるなぁと思って、それが自分に関係なかったら笑ってるかもしれない。(このへんがSF)

「オレの知らない理屈」の人が自分の近くにやってきて、自分のまわりの関係を壊しそうになったとき、どう対処するのか? という、個人的なレベルのことがもっと問題にされていいのではないかと思った。(このへんがハードボイルド)

たとえば自分にとっては、「存在すら知らない、理屈のおかしな人がいる」ことについて想像を巡らせることより、「友達がおかしなものを信じている」ということのほうが、自分の理屈をゆるがしかねない、切実な問題だ。

これは、<正当性>によって理屈の誤りを指摘することや、(逆に)人間一般への思いやりで喧嘩を回避する、などといった一般論では、どうにもならない部分がある、ということを示している。なぜなら、自分の理屈が脅かされるという感覚は、自分から近い人、遠い人によって段階的に違うものなので、一般論が適用できない。