why me / why not me

コーヒーを飲んでいたら、近くに座った人たちが、浪人した女の子と、合格した男の子が、春休みに入って久しぶりに会った様子で、男の子の方は女の子をからかっていた。

どういう態度をとっていいのか、わからないんだろうな、と思った。

不条理なことは、「なぜ私なのか」ではなく「なぜ私ではないのか」ということに起因しているから、人はいろんな、ときに無駄なことをして、その不条理と条理の境目を見ようとするんだなと思った。

afterwards

じぶんでよんでも意味わからん…

つまり…「私が災難に遭う」ということなら、飲み込み方はいくらかあるかもしれないが、「私ではなく彼・彼女が災難に遭う」ということの飲み込み方が、わからない、ということだ。

無理矢理に、飲み込もうとすると、「それは私のおこないが悪いせいなのではないか(私がもっとよい行いをしていれば、バタフライ効果みたいなものが生まれて、彼・彼女にもよい影響が及んで、今の状態よりはよかったのではないか)」という…現実的でない結論にとびついてしまったりする。

関係が深い人、距離が近い人が、災難に遭うと、心騒ぐが、そうではないと、それほどでもない。しかし「私が災難に遭う」可能性を起点にしているから、遠くにいくほど実感がなくなるのであって、「私はなんともない」というところから、考え始めると、別のように感じられるのかもしれない。