撲殺天使ドクロちゃんを読ませる

米光さんはそうとう怒られたそうです。

基本的に、他人に本を薦めて、その人が自分と同じ感想を抱いてくれるとか期待してはいかんようです。

最悪、「こんなものがオモシロいと思えるお前は頭がおかしい」と、あらんかぎりの悪罵を尽くされることを覚悟しておくべきなのでしょう。

そういう意味では、コミュニケーション目的で「感動する」本を貸す、というのが、僕はよくわからない(本の愛好者同士なら何を貸し借りしてもかまわないけど)。僕が貸すのは、たいがい、笑える本です。その方が返ってきたとき収拾がつけやすいからだと思います。

「おもしろいから読んでみて」と、ニヤニヤしながら麻耶雄嵩を貸したら、返ってくるときに微妙な顔をされたりする、とかいうことが、僕はよくありますが…こちらはその顔を見てまた笑うわけです。

オレはこんなにヘラヘラ笑えるのに伝わってない! なんてことだ! ひどい! とか思いながら。

新しく買ったアナログゲームをお披露目するも、不評で、「なんか微妙なシステム…」「失格ルールが意味不明」「もちょっとなんとかならんかったのー」とか言われたりするときも、言われるごとに「いやぁ…」とニヤニヤしてます。

SかMかと言われたら、Mかも知れません…(常套句)。

そういえば思い出しました。

僕には弟がいますが、中学生のころ、国語の担任の先生と懇意だったらしく、いちどその先生からハードカバーで『ノルウェイの森』を借りて来ていました。弟が自らそれを望んで借りたのだか押しつけられたのだかはよくわかりませんが。僕が、ふうん、と思って表紙を開けると、そのすぐ内側にマジックで「198x、あの時を忘れない」とか、なんか書いてあって、僕は当時大学生でしたが、見てはいけないものを見てしまったようだ、と思いました。これはヤバい、こんな本を借りてくるなんて弟と先生は禁断の関係にあるのではないか、などと臆測しつつあわてて本を閉じました。そして、先生のそのときの「想い」、本に込められた「想い」、それをたまたま開いてしまった僕への伝わらなさのずれに、なぜか(失礼ながら)笑いがこみ上げてくるのを禁じ得ませんでした。

自分が好きな本を人に読ませる、というのは基本的にディスコミュニケーションを生むのではないか。個人的な経験でしかない読書行為で、ある本を通して人と気持ちを共有しようとするのは、難しい。

当たり前か。でもだからこそ、伝える努力が生まれ…って…それも当たり前か。

そんな気持ちで、あさってのサン・ジョルディの日を迎えようかと思いました。