「やってもやんなくてもどっちでもいいもんなら、やりゃいいじゃないですか」
たとえば?Dにおけるアクセスランキングとか。弱者が生まれるとかいろいろ反対の仕方はあるが、それは僕にとっては方便だし、最終的に個人の好悪でしかないので、「やりゃいいじゃないですか」という(自称)合理主義の人にハナ差で負けると思う。
「やりゃいいじゃないですか」という立論の危うさを、相手を逆上(というかそういう場合、本人はいたって冷静を装うのでたちが悪いのだが)させずに指摘することは可能か、という問題じゃないのかと思う。
「やりゃいいじゃないですか」によって悪くなった例、というのが、世界には沢山あるような気がするが、それはプロジェクトX的美談によって隠蔽されているのかもしれない。
また、「要求仕様の変更」というのは「やりゃいいじゃないですか」の最たるモノだと思うのでそういうことに関する人文的蓄積はないのだろうか、などと思ったりするが(防御手段としての「アジャイル」とかなんとか、じゃなくて…)、テレビドラマの揚げ足をとってニホンの一般人はエンジニアへの理解もかようなものか、とか嘆いてる人には期待しないことにする。
自分内関連
言ってることは「正しい」が、そこで言うべきではないことがあって、僕の将来の不安の一つは、(勿論生活の問題もありますが)こういう「正しさ」だけが衝突して(しかし、世代を背負って立ってるような口振りに誰もその場で笑わなかったのか疑問)、その場を言いくるめる人だけが勝つ、ような、ガチの口げんか社会になることです。