耳/薦めることの難しさ/メッセージインナボトル

を読んで、頭に浮かんだこと。

あるものに対して耳(酵素・レセプタ…いろいろ呼び方はあると思う)ができていれば「わかる」し、できていなければ「わからない」。「わかる」「わからない」というのは煎じ詰めれば相対的な問題なのであって、その時の自分に応じて見え方聞こえ方というのは違うもんだ、と、思うし、今解らなくても見方というのは常に変わる可能性があるので、100%ダメな本とか100%クソゲーというのは、自分の中にはない。

「これが好き」の反対として、「これが嫌い」、というのはあるが、ダメ、というのはない。*1

ので、音楽を聴くときでも、よかった、悪かった、ということよりも、一周してきたらよくなった、みたいなことを重視してる。これはゲームでもそう。だから書き残す。

1.

やったゲームのことについて、いろいろごたくをならべていると、「評論でもしたいわけ?」と、聞かれることもたまーにある。その場合の、評論っていうのが何を指しているかがよくわからんのだけど、いろいろ言うことで野心があるんだろう、的な意味であれば、そういう意図は薄い。ただ書く。

もちろん、書くことで一般性を発見したいという気持ちはあるし、それが他人の目に触れて、自分ではない人のためになれば嬉しいかな、とは思うが…そういうのは私の自由だな。

2.

以前日記に「無理矢理本や音楽を薦めるのはイタイ」というようなことを書いた。真意は、イタイからやめようね、ということではなく、本質的にイタイことなのだそれは、と書いたつもり。自分と他人の耳の状態が同期してる、なんていうことのほうが珍しい。たまたま似たような聞こえ方をすればたいへん嬉しいけど、そうでない時は笑って話のネタにでもすればいい…そういう意味で笑いが必要かなと。

3.

カテゴリを表す言葉について。まぁジャンル意識に凝り固まってしまうのであれば、(周囲から見ると)無用な言い合いを生むこともあるから、いらないかも知れない。でもまぁ、これは一種の品質表示として働くような気がする。たとえばミステリで「新本格」という言葉を見た時点で、その名前を付けられたものの論理枠があるていど設定される。

そういえば先日、「トップをねらえ!」を最後まで観た(ちょっと泣いた)。たとえば「ハードSF」であるか、ないかの違いは、ウラシマ効果より複雑な設定をストーリーの軸に持ち込むか持ち込まないか、ということなのかな、と思った。

x.

「自分が日記を書くこと」と、「ジャンルカテゴリ・そのた概念の発明」に関係があると思うので、思いついたことだけ書いたが、まとまらない。

x2.

さらにまとまらない。

日記/ブログが「パブリッシュ指向」か「コミュニケーション指向」か、という話題につながるような気がするのでメモしておくが、パブリッシュかどうか、みたいなことは、書いている瞬間の自分にとっては関係ない。自分に対する矜持でもって、きちんとかく、ということはあるかもしれないが。

で、関係ないと言い切ってしまうと、この遮断を直接「外界の見えなさ」=「キモさ」であると断じられたりすることがあるが、それはかなりせっかちだと思う。勿論、読み書きする現場からさかのぼった、ソーシャルなレイヤ、書いたものがブロゴスフィアかなんだか知らないが言論圏を作ればいいなぁみたいなレイヤに立って見れば「キモい」ことかも知れない。

しかし誰かが書いたものに、なんでもかんでもこの「有益」「キモい」「馴れ合いウザい」という評価を適用しないと気が済まないような、そういう場所に立っている、というのは、ご苦労なことだと思う。

自分にとっての日記は、誰かに向けて、小瓶に書きかけのものを入れて、浜辺に置いてみた、くらいのことだと思う。後でまたここに来て読みなおすかも知れないし、そのまま波が攫ってどこかに流れ着いて、誰かが返事をくれるかもしれない。

*1:売り物として問題がある場合などは除く