フェアプレイと遊び
http://www3.vc-net.ne.jp/~longfish/varia/050508_fareplay3.html
を読んで。論理的にフェアプレイが可能か、という話題は難解でよくわからないので別のことを書く。
フェアプレイってそんなに重要な概念なのかと、感心しつつも、ちょっとびっくりした(筆者の方も遊び半分とおっしゃってるので、とくに真面目に受け取らないほうがいいとは思うが)。
フェアプレイは可能か。フェアプレイとはコミュニケーション可能性である。ゆえに可能である…という点から出発するのだが、フェアプレイというのがなんなのか、まずよくわからないので、そこからあとがあまりよく飲み込めない。ミステリ読者の巷間では、それはもう完全に定義された概念なんだろうか。
フェアプレイが論理的に可能か、ということより、フェアプレイの出自というか由来のことを知りたい感じ。なぜミステリの中でそういう約束を守るのが、いいことだと思われるようになったのか。
別の面から言うと、なぜ一部のミステリだけがフェアプレイを要求するのか。情報の全公開+論理的・かつ意外な着地、という意味では、たとえばハードSFの山場直前で、「量子宇宙論の基礎がわかれば必ずこの後の展開がわかる、読者への挑戦」があっても不思議じゃない。でも、そういうのは見たことがない(あるのかも)。なぜミステリだけがそれをやりたがるのか。
(あぁそれに答えを用意してるわけではなく、以下はまとまらない感想ですので為念)
個人的には、全ての情報が提示されて、それを解いて「わかったか」「わかるように書いてあったか」というのは、読者に依存することだし、結果論だし、それほど重要だと思ってない。
フェア=一つの規約
自分にとって「本格」というのは、フェアかどうか、ということよりも、謎の提示→論理→意外な着地、というシーケンスがどういう知恵によって解決されるかという、アイデアと構成のデザイン(ゲームにおけるゲームデザイン)のパターンに付けられた、一つの名前なのであって、それほど特別なものではない。いわんや、「フェアプレイ」に関しては、その「本格」を形作るひとつの規約でしかないという感じ。
ゲームで言うと、「このゲームではカードを使いますが他人の手の中の裏向きのカードをのぞいてはいけません」程度のものなんじゃないのかなぁ。確かにそれを使っているシステムは多いけど。でも普通に、手札公開で遊ぶゲームもある。
手札を公開したゲームを「アンフェア」とは言わない。むしろ、手札を公開するルールで「やだオレ見せたくないもん」と言っている態度のほうが「何やってんだ」ということになる。
ルールとしてのフェアと、態度としてのフェアが混同されがちだ、ってことなのかも知れない。
ルールとしてのフェアは必ずしも必要ではない
自分にとって、「本格」というのは、ゲームごとに微妙にルールやコンフィギュレーションが違っていて、そこで組み立てるべきロジックが毎回ちょっとずつ違う、ということが楽しいのであって、同一ルールの下でトリックがどうのこうの、という話にはあんまり興味がない。もちろん、論理の適用、という意味での運用面での(態度としての)フェアは必要なんだけど、必ずしも要件には「全情報が開示されてること」というルールとしてのフェアさは含まれない。
あとメモ
- 数学は直感だろという話見てカント読んでないことを思い出した