ジャンルの歴史を学ばない若者にジャンルに詳しいとしよりが老婆心であれこれ言う、ことについて(2)

以前、

ジャンルの歴史を学ばない若者にジャンルに詳しいとしよりが老婆心であれこれ言う、ことについて(1) - 焚書官の日常

という記事を書いていたので、以下のエントリを読んでちょっと思うところがあった。

状況:先輩の不在

なんでことさら年寄りがウザく感じられるかというと、リアル人脈での「先輩」がきちんと機能しなくなってるからなんじゃないか、と思う。

「先輩」は、偉そうなオーラを放って、後輩に、背伸びして掘り下げるよう、プレッシャーを与える存在。必ずしも博覧強記のグルである必要はなくて、自分の手持ちの情報からの次への掘り下げ方を示唆してくれてれば十分だと思う。
そういう人が減って、「偉そう」磁場に沿って好みを掘り下げていく機会が減ってるんじゃなかろうか。

で、そういうところに、たとえばネットで知り合ったていどのつきあいの年寄りが「これ読め」とか言っても、「はぁ?あんた誰?」ってことだと思うんですね。

人間的にそれほど利害関係があるわけでない人から薦められても、薦められたものの魅力だけで若い人がそれに向かうかどうかは、疑わしい。

「わかりましたー、今度読んでみますねー」って言われても、それが生返事ってことくらい、おじさん、わかってるから。(あ、それはオレの人徳の問題ですか)

年寄りの意図 : 「必読書」ってなぁに

「必読書」について考えてみる。

年寄りは別に「これを読め!」とか押しつけて、その感想を無理矢理聞きだして喜んでるわけじゃない。勿論、偉そうにしたいわけでもない(いや、ない、とは断言できないが)。

若い読者には「あれとこれの間には文脈があるんだよ」ってことを理解してもらいたいんだと思う。で、願わくば、自分でそういう文脈を発見していって欲しいと、考えている。

「必読書」はなぜ「必読書」なのかというと、多くの文脈との繋がりを持っていたり、文脈としてすごく太いラインの上に載っているから、だ。そこを押さえていれば、文脈の存在に気づきやすい。

文脈が重要という意味では、万人に効く「必読書」というのはない。今、その人が読んでいるものから伸びる文脈があれば、それを見つけられることが一番だと思う。

年寄りの意図 : 現役から振り落とされる恐怖

なぜ「必読書」やなにやらで、年寄りは若い人に文脈を意識させたがるか。

実は年寄りだって、新しい世代のものに手が回ってなかったりする。そこを、年寄りの知恵で、「文脈」を使ってカバーしているのだ。読んでないけど、この線の上になんかあるな、と、カンで把握してる。

若い人が自分の好みを深化させてくれない(周囲のものを手当たり次第に選んでいる)というのは、年寄りにとっては、脅威だ。文脈を作らせることで、全体を把握してたのに、新しいものが文脈を拒否してると、新しいものが理解できなくなる可能性があるから。気が付くとジャンルから振り落とされてる(自分のしがみついてる場所が、時代遅れのものだったりする)こともある。

必殺の一言

若い人が、「面白い」を深めてくれないと、年寄り的には後々困るわけだ。

もちろんこれは年寄り側の勝手な要求だから、若い人からすると「面白ければそれでいいじゃん」ということかも知れない。

たしかにそうなのだけど、面白い、っていうのは、自分にとっての面白さを発見していける能力を、含んでるんじゃないかと思う。

その君の「面白い」は、いつまで続く「面白い」なの? とか、言いたくもなる。お節介だろうけど。

この話をゲーム語りにマップすると

カタン100万回やって他のゲームせん人(今や、そういう人も少ないとか?)にどうやって他のゲームを遊んで貰うか、ってことと相似。

楽しければいいじゃん。押しつけよくない…はいはいはい、貴重なご意見ありがとうございます(耳ほじりながら)。じゃぁ麦2枚から鉄出ますかー(棒読み)。

…まぁ一見さんには、そういうことは言わない。

でも自分を「ゲーマー」とか「オタク」とか自己定義して、ちょっとでも自分のやってることを「趣味」だと思ってる人には、文脈創出能力を期待しますよ。それがどういう方向のものでも構わないけど。

偉そうなのは仕様です

以上の話の中の偉そうな部分は、「先輩」語りが趣味世界において磁場を発生させうるという仮説に基づき、免責される。

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