昔の焚書ネタの日記を検索されている人があったので

(検索しているその人と、気持ちの上で)いっしょになって、自分も、自分の日記を読んだ。

03年04月ごろ。みずみずしい。なにを書いていいかわからず、メタなほうにふれたり、日常雑記を書いたりしている。それは今と変わらないが。

…しかし、2年前からオレは清涼院流水とか読んではうっちゃり、してるのか…進歩がない…

…今と、変わらないが、わからないまま手探りで書いているところが、楽しそうだ。ダイアリユーザもまだ200人かそこらか、という時期で、頻繁にリファを送りあっていた。

それが?Dの黄金時代でした、などというつもりはない。なぜって、SFと同じで、その人がみずみずしいときがその人にとってのweb日記の黄金時代だから。これはとても個人的な問題だ。

わたしの日記がどういう形をとるか、について、Trackbackやコメント欄のやりとりでははかれない部分がある。そのことを思い出す。

明らかに、自分にとって今と当時で違っているものがある。書いている内容には大差ないのに。それは、文体にたいするコンシャスネスなんだと思った。知的生産、コミュニケーション、その他もろもろの、実利的なことを取り除いていくと、日記という行為で最後にのこるのは、自分をどう書くか、ということだ。g:fragmentsの頭おかしい人たち(ほめ言葉)が執拗に文体を意識しているのは、結局日記とは、じぶんの文体をさがす、ということだからなんじゃないか、と思った。