テニヌについて 2

に関して、嘘ニュースのクオリティが高かったために本気で信じた人がけっこういた、という話題です。

上に書いたが、以前は疑わしいページを見つけたら、順番にディレクトリをさかのぼるようなことをしていた。今はあまりしなくなったような気がする。webが記事指向になった、ということなのかもしれない。

懐疑論的なことを言うと、URLがどうこう、というのは状況証拠でしかない。(嘘ニュースの作者が、ここだけは真実を伝えようとした可能性もある。)

そういう立場があることを認めると、結局、記事の内容を真面目にいったん捉えてみて「ほげほげという協会は実在するのか?」「ほげほげという弁護士は実在するのか?」という、ネットジャーナリズム的な検証が、唯一とりうる態度だ、ということになっていくのかも知れない。

そういう立場から、「不思議に思ったらなぜ検索しないのか…」といった言い方が生まれる。

でも、最初に「なにこれ?」と思うのは、それまでの自分の経験に基づく直観だ。その直観は自分のそれまでの知識に由来する。だからこれは、その場で裏を取るという努力をするかしないか、というだけの問題ではない。

たとえば、小学生を相手にしたら、「きみが読んだことは嘘かもしれないから検索しなさい」とは言いにくい、そういう次元の話があると思う。

常識を疑え」という命令文には安易さがつきまとっていると思う。ほんとに疑ったら家から一歩も出られなくなるだろう。人に「疑え」って言うからには、常識のフレームもセットにして提示できないといけないと思うんだけど。

それは過保護すぎるんだろうか…。

んー、簡単に言うと、「裏をとりなさい」じゃなくて「まず歴史を勉強しなさい」という人が、もっといたらいいなぁと思う、ってことか。