誤った想像をする時間が経験だ(ワンダと巨像)

ワンダと巨像」について。自分の中では白派(感受性の強い白派と、フレームレートがどうとかインターフェースがどうとかいう黒派がせめぎあう)がかなり優勢。

土曜から進めていないので6体目を倒したところの話。白派の感想。

ネタバレではないかも知れませんが、プレイヤーから想像力を奪う可能性があります)


7体目のいる場所をさがして峡谷の先をうろうろしていたら、妙なところに迷い込んでしまった。水路が通る静謐な神殿の跡地のような場所で、これは指示された「湖」とは違う場所だ。

デモも発生しないし、天の声のナビゲーションもないので、ここは本筋とは違う場所(あるいは、後で必要になるが今は関係ない場所)なのかも知れない。

無人の廃墟を歩き回っているうちに、日陰になった中央の拝殿跡の左右に、柱が並んでいる場所に出た。

で、いったいここは、何の跡なんだろうか? …と、わたしは主人公「として」考えた。ゲームへの没入度が高い(高くなるようにきちんと細部までデザインされている)と、こういう想像が可能になる。

「ひょっとしてこちらが、わたしが最初にたどりつくべき、本当の場所だったのではないか」
「今、わたしが命令に従っているもの(名前忘れた)は、この本当の場所にいた何かの、偽物なのではないか」

という邪推が、頭をもたげてきた。

この推理は、正しいかもしれないし、間違っているかもしれない。仮に正しいとすれば、これから主人公を待つストーリーは、あまり救いがあるとはいえないものになるだろう。

自分の考えた架空の設定と架空のストーリーに、切ない気分になりながら、思った。

今こうやっている、邪推と空想の時間が、ゲームを読むという経験、そのものなのだ。それが正解かどうかはどうでもいいことだ。

制作者のインタビューに、同じようなことが書かれていた…というか、インタビューの内容を、そういうふうに、わたしは解釈した。

これは僕自身の考えですが、ゲームには、映画のように複雑な脚本を語るだけの……映画でいうモンタージュ技法のような手法がまだ確立されていないと思うんです。もし、それをどこかの天才が発明してくれれば上手くストーリーを語るゲームが可能でしょう。でも、現状では、ストーリーをちょっと見せて、ゲームをちょっとプレイして、またストーリーを見せてというやり方しかできない。それでは、テレビゲームである意味はあまりないんじゃないかと。だったら、シナリオをつくることではなく、世界観をつくるほうに専念して、“ディテールに神が宿る”ではないですけど、その世界を体験したプレイヤー自身にストーリーをつくってもらうほうが、今のテレビゲームには合ってるんじゃないかと思うんですよね。

「世界観」というのは、想像のための自由な余白を可能にするための、ディテールの詳しさなんじゃないか。きちんと読めもしない「新しい太陽の書」を、わたしがベストSFのひとつだと考えている理由でもある。