**語り、余白について (3)
ここまでのはなし
- 「ワンダと巨像」は、ある部分を捨ててディテールを細かくすることで、描かない部分を、ユーザに自由に想像させることを可能にしている。
- これを簡単に「情感」と言い切ってしまうと何かを切り捨てることになるかもしれないので「情感」を定義しておくと、状景の中に、プレイヤーが過去の経験から呼び起こされる感情を注入することが容易だということになる。
- 余白の存在が「面白さ」を可能にしているという仮説。ミステリはとてもそのあたりが解りやすく表現されているし、文体の中で常に余白をある方向に生み出して読者を誘導する作品もある。
- こういうふうに書くと「最近はワンダと巨像にご執心だね」とか、リアルで言われそうなので慌てて補足しておくと、ことさらにこのゲームがよい、ということではなく、このゲームを通して、余白とプレイヤーの想像の可能性という構造が自分にとって重要なのだ、ということがわかった、ということをメモしておきたいだけだ。
- ここで言う余白というのは、構造であって、それは情緒的なものかもしれないし、論理的なものかも知れない。
余白の技法
- 作者: 結城浩
- 出版社/メーカー: ソフトバンククリエイティブ
- 発売日: 2005/03/24
- メディア: 大型本
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それだけではなくこれを「面白い」と思えるのは、ところどころで急カーブやちょっとしたジャンプをやるようにして余白を作り出しているところかも知れない。
例題のいくつかが、プログラムを書く人の感覚に結びつくようなテーマや数になっていたり、説明が面倒そうな箇所がばっさり端折ったりされていて(ハノイの塔のプログラムとか)、そこが「余白」として感じられるのだと思った。