アナログゲーマーって、常にメタゲームに晒されてるものなんじゃないの?
…というのが、今回思ったことの結論。何を遊ぶか、誰と遊ぶか、というメタゲームに晒されている人たちが、なぜ「マナーで解決」とか、謎なことを言い出すのか。(これはSBMコメントでも言われていることだけど)
文句ではなく、素直に知りたい。
サークルの例会なんかでは、立卓するときから、自分の欲求と他人の欲求のバランス取りを、無意識に考えるもんだと思うんだけども。つまり、何のゲームをしようか提案するところから、広義のゲームは始まっているというか。
それは自分のまわりの数少ない例で、実際には面子が固定したり、運営スタイルの違いで、そうじゃない雰囲気の集まりもあるんだろうか。意見の相違を完全に人格に吸収しちゃうような…。
自分と他者の要求が拮抗するときどうするのか
- 私:「エル・グランデがやりたい」(いろいろ選択肢がある中で、そのゲームを今からプレイしたい)
- Xさん:「エル・グランデは苦手だ」(できれば、そのゲームではないものをプレイしたい)
という場合…
「すまん、オレが押しつけるようなことを言って悪かった! 君の好みを尊重しよう」と、最初から言うのか、って話だ。
- 面白いところを説明する
- 日記に、いかにも面白そうに書く
- 熱く語る
- 他の人と立卓して、その感想トークをその人に聞かせる
- 似たゲームをプレイしてみて、感想を尋ねる。
- 面白かったか
- しんどかった部分はあるか
- その人が苦手な部分があれば、それが軽減されるようなプレイを考える
- 場合によってはルール運用を変える
いろいろ、やることはある。
「趣味の押しつけはよくない」と思考停止する前に
このように手を尽くして、わたしは相手をオルグしたいのか、自分色に染めたいのか。そんなに、「エル・グランデ」がやりたいのか…。いや、エル・グランデは素晴らしいゲームです…。
…あぁいやいや、そうではない。相手が最終的に「やっぱダメ」という結論になっても、いっこうにかまわない。
人とわたしは、どう感じ方が違うのか。わたしの感じているオモシロが、どこまで普遍性のあることなのか。そもそも、わたしが片足突っ込んでしまったゲームという娯楽に、普遍的な価値と呼べるものがあるのか。それが知りたいと、いつも思っている。
ゲームからメタゲームにシフトしなければ趣味は閉じる
一通り、主立ったシステムのゲームを遊んでみて、どれも知っているものの順列組み合わせに見えてきたあたりから、趣味の強度が試されるのだ。
(@todo:このあたりはもっと整理しないと意味が通じないので後日書けたらその記事へのリンクを張る)
中古ゲームショップの片隅で「どれも同じに見えるよなぁ…」と、ドラクエ某やファイナルファンタジー某のパッケージを手にとって、失望に沈む、なんてぇのは、もう繰り返したくない。