ボードゲームの価格、あるいは、価格が流行の決定要因に見えることについて
を読んで。
価格と快
遊ぶ基準としてお金がいくらかかるか、という判断基準がある。判断をしているということは、何かと天秤にかけているわけだが、ゲームの場合それは「快」(楽しい時間etc)と言える。天秤の片方にかける快が大きければ、価格も大きくて構わない。たとえば、ビデオゲームのためにハードウェアを買うときなどは、快の期待値が大きいから、数万円出せる。
ということは、逆に言えば「ボードゲーム」が提供している快というのが、一般的な(ビデオや音楽CDをレンタルしてきたり、映画を観たりする)快と同列に並んでいるかぎりは、普通は一定以上のお金は払いたくない、ということになる。上にひいたid:DocSeriさんのエントリは、そういう観点から書かれたものだ。
趣味の人
しかし、これに、一定以上のお金を払ってしまう人たちがいて、そういうのは「趣味」という。自分などは、楽しい時間を提供してくれる以上の、ゲームそれぞれの多様性を見つけることが楽しいと感じる。だから、やるかどうかすらわからないゲームを買ってルールを読んでニヤニヤ悦にいるのである。
「ボードゲームと普及」というお題で、自分も私見を書くことがあるし、他の人が書いたものも読む。それで思うのだが、こういう「趣味」の人がいる、という事実が、軽く見られていて、やったことのない人*1にどうすれば広められるのだろう、という方向の話になりがちなのではないか。
「趣味」という話になると、価格は高くても買うという、個人の「快」の量の問題になってしまうから、一般論として論じることが難しい。だから、主観的な「快」はとりあえず一定にしておいて(ターゲットを、映画や音楽と同列にゲームを買うという一般の人に限定して)、それにいくらなら払うか、という話になりがちだ。
それについて文句があるわけではないが、「趣味」という話を敢えて切り捨てて考えていたはずが、いつのまにかそれが前提になって、普及を論じるときに、価格のような数値化可能なパラメータだけしか見なくなるのは、つまらない。
これだけ安いのに…?
わかりやすく書くと
- 「カタンがそれほど流行しなかったのはなぜか?」
- 「こんなに面白いのに」
- 「他の遊びと比べて、価格は十分安い筈だ」
- 「なら、プロモーションが下手だったのだな」
…と、いう話ができてしまう。ここで「価格」とは、一見客観的に何かを判断しているように見えて、他に責任を転嫁するための材料でしかない。
プロモーションが「下手」というのは主観だ。
結局、「高かったから売れなかった」のか「安かったけどプロモーションが下手だから売れなかった」のどちらかを選択して、メーカーに不平を言えばいいということになってしまう。*2
結論
- 私はメーカーの人じゃないので、価格とプロモーションにはあんまり興味がない。
- 私にできることは、「趣味」としてそれが成立していることを自覚して、なんだか面白そう、と他の人に思ってもらえるために、こうやって駄文を書くことくらいだ。
- 楽しみで本を読む、ということに関して、私は他人の日記を読むことで惹かれるようになった。だから、人に対しても似たようなことができればいいと思う。