読者が「解く」べき謎なんてない、なぜならそれは作者が準備したものだから

ということを、ここ数日の日記のまとめとして書こうと思いましたが、まとまらないので書けません。

作者が作ったものを読者・プレイヤーが「解く」というのは、極端に言えば嘘でしょう。ゲームにおける「謎解き」っていう言葉の語感はおれの中では「おつかい」と大差ない。あるアクションへの誘導が、暗示されているか明示されているかの違いでしかありません。

あーそうだ

何が起きたのかがわからないタイプの話というのはあって、これは大きな「謎」だと思うし、惹かれる。

予想と裏切り

作者がてっきり準備してるものだと信頼してたら、準備してなかったから腹が立つんだよ、みたいなことがある。清涼院流水とか。

わたしは『奇偶』も「え、明快なオチなし?」と思ったのだが、それはそれで「あぁ思ったほど楽しめなかったな」と思うだけだ。(『コズミック』『ジョーカー』は文体に耐えられなくなって途中で捨てた。あと背がピンク色だったのも鬱陶しかった)

まぁ、時間に対する感覚がシビアな人は「時間返せ!」と思うかも知れない。

しかしまぁ、エンターテイメントを読む時点でそこはどぶに捨てているわけで…。どぶはどぶなりに全部捨ててしまわないようにどぶの中でも鑑賞の仕方をさまざま編み出すわけです。「謎解き」ゲームへの過大な要求に対して思うのは、なんでそんなに謎解きですかと。合理的に解けて(作者がそういうふうにプログラムして伏線を張った上を歩いているだけなのに)そんなに楽しいですかと、そういうことだ。いや楽しいかも知れないけど、そんなに大事なんだろうか。

たぶん書かないので

書いている自分を妄想する。
(どこかの)世間的に「かまいたち3」絶賛→逆張りで「2」擁護→そんなに「街」みたいなのが大好きなら小説を読んだほうが効率いいと思います、一つの解に至ることが楽しいのならもっと面白いものはいっぱいあるだろう→ここで「2」の妄想篇の意味を検討→所詮謎解きゲームなんて手続きの問題だろうという、プレイヤーへの呼びかけではないか
らへん。